懐の深い社会・・・少年院見学記



 先週月曜日の午後、私は出張で学校を不在にした。高校の特別活動研究会という組織の研修で南小泉は古城にある少年鑑別所と女子少年院の見学に行ったのである。

 少年鑑別所とは、家庭裁判所で審判を受ける少年(容疑者)を一時的に拘留し、少年の心理状態等を調査するための場所、少年院はもちろん、既に有罪判決を受けた少年を矯正のために収容している施設である。どちらも40分ほどのレクチャーがあり、その後、職員が所内を案内してくれる。収容されている少年少女の活動の様子を見たり、直接話を聞く機会がなかったのは少し残念な気もしたが、当然の配慮であろう。

 施設そのものは特別と言うほどのものがあるわけではない。特別なのは、ドアにむやみに鍵がかかる(鍵を持っていないとトイレも含めてあらゆるドアが開かず、閉めると自動的にロックされる)ことや、周囲の高い塀やフェンスに三重の電線が張ってある(脱走しようとして触れると感電する、のではなくて、警報が鳴るのだそうな)ことくらいである。

 一方、レクチャーを聴きながらとても感心したのは、教官達に、処罰するとか懲らしめてやるとかではなく、いかにして健全に社会復帰させてやるか、家庭環境にも恵まれない収容者達に、他人であり監督者という立場ではあるが、どれだけの愛情を注いでやれるかということに、強い使命感と問題意識を持っているのが感じられたことである。

 鑑別所は職員22人で、年間の収容者数が250人くらい(一人平均の滞在期間は約4週間)、少年院は職員30人で、年間収容者数は約30人(同約1年)ということで、私の勝手な、そして大雑把な計算によれば、設備維持費を含めると前者では一人あたり100万円、後者では1000万円あまりの国費が投じられていることになる。人によってはケシカランと思うかも知れない。罪を犯して世の中に迷惑を掛けた上に、そんなに税金を消費するのは許せない、という文句はあるだろう。しかし、私は、日本という国もなかなか立派だなあ、と思った。これだけの費用を投じて、一人の若者を健全な社会人に育てていこうというのは懐が深くなければ出来ないことだし、一人の人の人生の重さ、社会への影響の大きさを考え、ただ厳罰主義で臨むのではなく、可能性を信じて引き出そうという発想は健全である。

 最近、政府の財政赤字に対する危機感も強く、その結果、予算の削減、コストダウンということが「公」の世界でも年々厳しく言われるようになっている。しかし、経済の論理で進めてはいけない分野が世の中には間違いなく存在するし、それは「公」でなければ出来ないことだ。そして、最近の状況下でも、鑑別所や少年院にこれだけの投資が為されていることに、私は大いに安心し、日本も捨てたものではないと感心したのである。