二つの子育て論を聞いて



 この1週間に、立て続けに2名の教育論を拝聴する機会があった。一度目は11月27日、宮水の校内教職員研修会で、講師は北海道千歳市にある北海少年院の首席専門官・青木治氏、二度目は今日、娘が通う門脇小学校の授業参観における保護者研修会で、講師は心理相談室「こころ処・利府」室長・心理療法士・古関光一氏であった。

 高校の教職員と小学校の保護者という対象の違いがあるので、話が同じであるはずはなく、前者は、オープンクエスチョン(答えのない問い)を投げかけながら、子どもの自らよりよく生きようとする意志を見つけ出し、そこから子どもの自発的な成長を促そうというもの、後者は、保護者の役割というのは、子どもを叱ることではなく、常に子どもを赦し、愛することに徹することだという話であった。

 こう書けば、確かに違う人による、違う相手を対象とした違う話だ、ということになるが、大きな共通点がある。それは、本当に子どもを健全に成長させようと思ったら、子どもを肯定的に見つめ、信じ、内発的な意志の力に頼るしかないと考えている点だ。強力な外圧をかけることは反発を生むだけだし、一時的、外面的に健全な行動を取るようになることはあっても、外圧が無くなった時点で元の木阿弥、もしくはそれ以下になる、という。

 これは、私にとって意外なことでも何でもなく、むしろ、確かにその通りだろうなぁ、と思わせられる指摘である。ところが、私が職場として身を置いている「学校」などという場所は、外圧こそが「教育」であるという発想の下に様々な活動が成り立っている傾向があるので、甚だ耳に痛いのも確かであった。

 では、今書いたような学校の在り方は、教員の無知や誤解によるのかと言えば、必ずしもそうとは言えない。全面的に子どもを信じ、認めて、その可能性に賭けるというのは、私が思うに、責任がない(もしくは、全てに責任が取れる)ということと、時間の制限がない、という二つの条件がクリアーできなければ、「言うは易く、行うは難き」ことだからである。古関氏が、あくまでも対象を保護者に絞って語っていたのは、そのことと関係するだろう。学校は、常に結果を求められる(「公」の性質)し、時間が切られている(最長でも卒業まで)から、生徒に外圧をかけずに済ませるのが極めて困難だ。保護者はその点、子どもが悪いことをしても、自分が腹さえくくれれば、子どもを赦して外にはわびる、ということができるし、親子の縁は一生切れないから、まだできる余地が大きい。それでも、やはり、人を育てるということの普遍的な真実として、外圧主義・適格主義は考え直さなければならないのだろう、と思う。

 私が、古関氏の講演の中で、共感しつつも少し心配したのは、親が子どもを全面的に肯定し、愛し、信じるとは言っても、そう言ってしまうと、「愛する」を誤解する親がたくさんいるだろう、ということだ。しばらく前にも書いたが、自転車で来れば済む所から、毎朝せっせと学校に子どもを車で送迎している親、幼い頃からゲーム機やスマホを買い与えている親というのは多い。おそらく、その親たちは、子どもが喜ぶことをするのは無条件にいいことだ、それは子どもに対する愛の証明だ、と思っているに違いない。

 講演の終了後、学級懇談会というのがあった。最後に情報交換として、「早寝・早起き・朝ご飯」について各家庭の状況等を述べ合う時間があった。小学校3年生なのに、子どもが朝ご飯を食べたがらないという家が案外多いのに驚いたが、もっと驚いたのは、近郊の仮設住宅から子どもを通わせているらしいある母親が、「コンビニで「ピザまん」を買って車の中で食べさせると、子どもも嫌がらずに食べるので、自分は毎日そうしている」という話を(少し得意そうに?)し、別の母親が、「なるほど、それはいい話を聞いた!」みたいな反応を示したことである。もちろん、私の感覚では、家で朝食を摂りたがらない子どもに、まるで子どものご機嫌を取るようにコンビニでピザまんを買う必要などないし、そもそも、そんな食生活は極めて不健康で子どものためにならないのである。だが、彼女にとっては、子どもが朝ご飯を食べられるようにしてやったということが、子どものためであり「愛」なのだろう。

 自分の子どもが今後どのように成長するのか分からないので、あまり偉そうなことは言えないのだが、子育てで最も重要なのは確かに愛であり、信頼であり、全面的な肯定感だとは思う。一方、子どもに迎合し、健全な自立を妨げることが「愛」であるわけはない。どうすることが本当に子どもの将来のためによいのかという正しい理念は必要であり、「愛」はその理念と表裏一体でこそ機能する、と思う。