三木清「学生の知能低下に就いて」(卒業の餞)



(裏面:三木清「学生の知能低下に就いて」(昭和12年5月)の約半分を引用(文春文庫『「文藝春秋」に見る昭和史(一)』より))。

 三木は、法政大学に籍を置いた著名な哲学者。『人生論ノート』は今でも新潮文庫のロングセラーだ。他に『パスカルにおける人間の研究』等が有名。後に治安維持法違反で捕まり、終戦直後に僅か48歳で獄死した。二・二六事件が起こり、日中開戦を目前とした時期に、強まる国粋主義的統制への批判をも込めて書かれたこの文章は、現在に全くそのまま通用する古びない価値を持つ。知らずに読めば、まさか今から70年ほども前に書かれたとは到底思えないであろう。これまで、このプリントの裏面に、新聞記事を始めとする数々の文章を引用してきたが、諸君の卒業に当たり、餞として最もふさわしいと思ったのが、この若々しい理想主義に貫かれた名文である。


「私の知人の某教授は、今日の学校は一階級ずつ低下し、高等学校(平居注:これは旧制高校のこと)が中学(平居注:同じく旧制中学校。これが現在の高校とほぼ同じである)になり、大学が高等学校になった、と言っている。かような低下は直接にはいわゆる「知識」に関することではないであろう。低下したのは主として学生の「知能」である。知識と知能とが関係のないものでないことは明らかであるが、両者は一応区別することができ、また区別して考えなければならぬ。

 たとえば今日の高等学校の生徒にとっては大学の入学試験が大きな問題であり、その準備に多くの力が費やされている。それはちょうど昔の中学生が高等学校の入学試験に対するのと同じである。また以前は高等学校に入れば、家庭においても学校においても独立の人格として認められた。しかるにこの頃では、息子の大学の入学試験に対する親たちの態度はちょうど以前の中学生が高等学校の入学試験を受ける場合と同様であるとすら言われている。生徒に対する学校の干渉はまさに昔の中学校以上である。入学試験準備のために読書はおのずから制限されるであろう。この準備勉強によって高等学校生としてのいわゆる学力は低下しないにしても、それが知能の発達に益しないことはしばしば言われている通りである。試験準備の勉強は学問について功利主義的なあるいは結果主義的な考え方を生じ、かような考え方は知識欲を減殺するのみでなく、知能を磨く上に有害である。昔の高等学校の生徒は青年らしい好奇心と、懐疑心と、そして理想主義的熱情とをもち、そのためにあらゆる書物をむさぼり読んだ。我々の知る限り、読書の趣味は主として高等学校時代に養われるものである。この時代に読書の趣味を養わなかった者は、一生その趣味を解せずに終わることが多い。しかるに今日の高等学校の生徒においては、彼らの自然の、青年らしい好奇心も、懐疑心も、理想主義的熱情も、彼らの前に控えている大学の入学試験に対する配慮によって抑制されているのみでなく、いっそう根本的には学校の教育方針そのものによって圧殺されている。現在の教育政策は青年の好奇心や懐疑心や、理想主義的情熱、すべて知的探求の原動力となるものを抑圧することに向けられている。たとえば青年の理想主義的熱情はヒューマニスティックな感情から発するのがつねである。それは社会のうちに矛盾を見出し、現実に対して批判的となることから出てくるのであり、そこからこの社会についての認識を深めようという知的努力も生じてくる。しかるに今日の学校では、このように社会を批判的に見ることを禁じているのである。そこでは学問そのものも批判的であることを許されていない。批判力は知能のもっとも重要な要素である。批判力を養成することなしに、知能の発達を期することはできぬ。しかるに今日の教育は青年の批判力を養成しようとは欲せず、かえって日本精神や日本文化についての権威主義的な、独断論的な説教を詰め込むことによって彼らの批判力を滅ぼすことに努めているように見える。日本精神や日本文化について講義することが必ずしも悪いのではない。その独善主義的な、教権主義的な教育が青年の知能を低下させている事実を、我々が黙視し得ないのである。

 ある大学生の話によると、事変(平居注:昭和6年の満州事変を指す)後の高等学校生はほとんど何らの社会的関心も持たずにただ学校を卒業しさえすれば好いというような気持ちで大学へ入ってくる。それでも従来は、大学にはまだ事変前の学生が残っていて、彼らによって新入生は教育され、多少とも社会的関心を持つようになり、学問や社会について批判的な見方をするようになることができた。しかるに事変前の学生が次第に少なくなるにつれて、学生の社会的関心も次第にとぼしくなり、かようにしていわゆる「キング学生」、すなわち「キング」程度のものしか読まない学生の数は次第に増加しつつあると言われる。我々は必ずしも学校がかような学生のできることを歓迎しているとは考えない。しかし青年の理想主義的熱情を圧殺することは、彼らを現実主義者ないし功利主義者に化することである。学校の課程以外の勉強に「無駄な」労力を費やすことをなるべく避けようとする功利主義から、あるいは社会的関心を持つというような危険なことからなるべく遠ざかろうとする現実主義から、彼らは「キング学生」になるのである。彼らの現実主義、功利主義から彼らの知能の低下が生じてくる。学生が理想主義的熱情を失ったということは、今日の社会が彼らに夢を与えるようなものではないということのみによるのではない。真の理想主義は人生および社会の現実を直視し、その矛盾を発見するところから生まれてくるのである。現実の醜態についての仮借することなき批判的認識がもっとも高貴な理想主義の源泉であることは歴史のつねに我々に教えることである。学生の批判力を殺してしまっておいて、彼らの功利主義を責めることは矛盾である。日本主義は理想主義ではないのであろうか。聞くところによると、この頃の教学では日本主義を「理想主義」と考えることすら異端として排斥されているそうである。それ自身は真に現実主義的である学問の根柢には、つねに理想主義的熱情がある。しかるにそれ自身は理想主義的であることを欲しない日本主義は現実そのものについては架空の理想主義的な見方で満足しようとしているように見える。両者はどこまでも両立し得ないものであろうか。「キング学生」は必ずしも学校の成績が悪くないかも知れない。現実の学生はむしろ学校の成績に対してはなはだ神経質になっている。「高文学生」といわれる種類の学生、すなわち高等文官試験(平居注:現在の国家公務員1種試験に相当)にパスすることを唯一の目的として勉強する種類の学生の数は殖えているであろう。しかしかような勉強は何ら批判の伴わない勉強であり、それによって知能が向上しているとは考えられないのである。卑俗な現実主義は人生においてただ間違いのないことのみを求める。詩人は言った、「人は努力する限り誤つ」と。間違いがないということは、真に努力していない証拠であるとすら言うことができる。「間違いのない」学生が次第に多くなってきたということは、はたして悦ぶべきことであろうか。燃えるような攻学心は、彼らの間において次第に稀なものとなっている。

 今日の学生が勉強しないのは彼らの将来に希望がないからであると言われている。彼らに向かって、もっと勉強せよと言うと、何のために勉強するのかと問い返されて困るということは、多くの教師からしばしば聞かされることである。私はむしろこの反問そのものがあまりに功利主義的であるのに驚かざるを得ない。彼らは何故にその「何のために」という問をもっと徹底させないのであるか。勉強しても喰えるようになれないというのが今日の状態であるとすれば、何故にそのような社会の状態の原因について追及することをしないのであるか。そしてその原因が分かれば、何故にそれの排除のために闘うということに意味を見出し得ないのであるか。あるいはその「何のために」という問を哲学的に考えて、人は何のために生きるのであるかということを根本的に問おうとはしないのであるか。功利主義者ミルでさえ、幸福な豚となるよりも不幸なソクラテスとなることに真の幸福を見出したのである。学生の知能低下は、彼らに社会的関心が少なくなったことに関係している。社会的関心が盛んであれば研究心も盛んになってくることは、かつてのマルクス主義時代の学生が証している。しかるに今日の日本主義的学生は概して頭脳も悪く、また勉強しないと言われている。これに反して頭脳の善い学生は功利主義的となり、社会的関心を失っている。かくのごときは日本主義のためにも決して慶賀すべきことではないであろう。」


【補足】

 スペースの都合で、引用が全文の約半分に止まったのは残念。引用部分だけでは、「知識」と「知能」の違いが分かりにくい。引用部分からだけでも「知能」の根幹に「批判力」があることは分かるが、省略部分には、「真の知能は理論的なものである。理論的意識なくして知能はなく、また真の知識もない」更に「理論的意識は組織的な体系的な精神であるばかりでなく、批判的精神である」とあって、知能が、表裏一体である理論と批判をその重要な要素としていることが読み取れる。

 さて、前口上でも書いた通り、現在の学校(教育)と当時の状況とがあまりにも一致していることに私は愕然とさえするのであるが、このことによって、現在の学校教育が何をもたらすかということが予見できる、というのは穿ちすぎた見方であろうか?

 すなわち、大学入試や高文試験への対応(対策)といった功利的・実利的教育が、学生の知能低下を招き、その結果が無謀な戦争への暴走を支えた、若しくは、ブレーキをかけることが出来ない現実を生んだとすれば、現在の同様な教育も、戦争であるかどうかはともかくとして、何か破滅的な事態の招来に結びつくのではないか、ということである(現在の決していいとは言えない世の中も、既にそのような教育によって作られてきた。それが加速度的に悪化するのではないか、ということ)。少なくとも、そのような教育が、学生の知能(理論的批判能力)の低下を引き起こしているところまでは、展開として同じである、と私には見える。だとすれば・・・なのである。教育現場に身を置く者として、私は、今の教育と、それに関わりながらほとんどそれをどうすることも出来ていない自分の責任が恐い。