『夏の花』読書会



 いつも、年に一度は読書会をしなさいと図書館から言われはするが、40人という人数の多さや時間的制約、そして何よりも、自分の思いを人に向かって述べるのが苦手という日本人の国民性とによって、実施はなかなか容易ではない。それが今回、曲がりなりにも成立したのは画期的だった。

 また、図書館で某先生から薦められて読むことになったテキストが『夏の花』、現代文の教科書に載っていながら、時間の都合で扱えなかった問題作を、LHRで補う形で扱ってもらうことが出来た点も良かった。

 ただ、その様子を見ていて少し気になったのは、諸君の感想の中に、「戦争の時代に生まれなくてよかった」「当時の人は気の毒だ」式のものが少なからずあったことだ。

 戦争が悲惨であり、歓迎すべからざるものであることは、昔の人にも分かっていた。しかし、始まってしまった戦争は簡単には止められないし、そもそも戦争は突然始まるわけではない。いろいろな言い訳をし、大義名分を立てながら、自分たちの目先の利益のために少しずつ悪いことを行いながら、その時、人々はそれが戦争への道であることに気が付かない。それが積み重ねられたところで、ある日、いかにも突然であるかのように戦争は始まり、人々はここだけを見て「戦争が始まった」と言う。恐ろしいことだ。なぜなら、今既に、私達の身の回りで戦争への道がスタートしていたとしても、多くの人がそれに気付いていないということは、大いにあり得ることだからである。

 『夏の花』は1947年の成立。最も早い時期に書かれた、被爆者自身による原爆文学という点で重要だということは、読書会の最後で私が述べた。そして、こんなことをふと思い出した。

 20年ほど前、ヴェトナム戦争を描いた『プラトーン』という映画(監督:オリバー・ストーン)が評判になり、確かアカデミー賞を受賞した。その時、ある雑誌に「IWTの勝利だ」という評が載ったのを、ひどく納得しながら読んだことを憶えている。「IWT」とは" I was there"のこと。つまり、オリバー・ストーンは、人から伝え聞いたヴェトナム戦争ではなく、自分自身が体験したそれを撮ったからこそ、優れた作品を生み出すことが出来た、という訳である。そういうことはある、と私も思う。自らの体験に基づく言葉こそが力を持つのだ。興味のある人は、一度、実体験に基づかない原爆文学(例:井伏鱒二『黒い雨』)と読み比べてみるとよいだろう。