私の学問史(10)



 修士論文を提出した直後、私は5年ぶりで中国を訪ねた。1982年に西安で知り合った上海の人と、その後も手紙のやりとりが続いていたので、上海見物を兼ねて、一度会いに行ってみよう、と思ったのである。1982年には全く認められていなかった個人旅行が、香港で取ったビザを持っていればという条件付きで許されるようになった、という中国の事情もあった。

 わずか3週間あまりの旅行ではあるが、せっかくの機会だからと、上海から広州、香港、更には台湾を経由して日本に戻ることにした。

 1988年1月13日、香港でのことだった。この日私は、13:35発の台北行き中華航空機に乗る予定だった。当時、空港は市街地からわずか15分ほどの啓徳空港だったので、午前中の時間に余裕があった。私は、香港・九龍半島のネイザンロードをぶらぶら歩き、何か面白い物はないかと一軒の書店に入った。カセットテープ売り場で、『抗戦名曲 黄河大合唱』という白いカセットテープが目に止まった。「抗戦名曲」とは何だろう?当時私は「抗日戦争」という言葉は知っていたが、うかつにも「抗戦」が「抗日戦争」のことだということには思い至らなかった。仮にそのことに気付いていたとしても、「抗戦」と「名曲」がなぜ結び付くのか、「抗戦」の「名曲」とはどういうことか、というのは分からなかっただろう。それでも、当時仙台市内の某合唱団で歌を唱っていた私は、中国で作られた合唱曲というだけで興味を引かれ、とりあえずそれを買った。

 飛行機の中でこのテープのことを思い出し、封を切った。中から歌詞カードが出て来た。ざっと目を通して、「鬼子」という言葉を見つけた時、私は「抗戦」が「抗日戦争」のことであると気付いた。作曲者は冼星海。「冼」(二水に先。音読みは「しょう」。中国語ではシエン)という漢字を見たのも初めてだった。しかし、作曲者についての説明も、楽曲についての説明もない。歌詞を読んで、どうやら、この音楽は抗日戦争へ向けてのプロパガンダソングという歴史的史料であることを了解した。

 帰国後その音楽を聴いて、私は驚嘆してしまった。全部で7曲からなる25分ほどの合唱組曲だったが、中国的な響き、通俗性と芸術性が絶妙なバランスで含まれ、全体としてよくまとまった音楽になっていた。そして、厳良堃という指揮者による演奏も素晴らしかった。正に、切れば血が噴き出すような、緊張と熱気に満ちた演奏だった。モノラル録音で、レコードからテープに移したことが分かる、パチパチと針の音が入った質の悪い録音だったが、そんなことは一向気にならなかった。音楽の質の高さに比べれば、実に些細なことでしかなかった。いや、録音の質が悪かったことによって、私は、その演奏が、実際、抗日戦争下で行われた歴史的録音なのではないか(この想像があり得ないものであることは、数年後になって分かった)、そうでなければこれほど感情移入した、まるでものに取り憑かれたような演奏ができるわけがないと思い、逆に感動が増したほどである。冼星海とはいったい何者なのだろう?

 何しろ、当時、私は日本でも有数の(?)中国学研究機関に在籍していたのである。わずか40年ほど前の、これほど素晴らしい曲を作った音楽家が無名であるわけがなく、それについて調べることくらい容易だろう、と思った。

 ところが、大学で、中国の現代史や現代文学の専門家に、「冼星海」とは何者か尋ねてみたところ、誰も知らなかった。更に驚いたことに、全国の大学図書館で2番目の蔵書数を誇ると言われていた東北大学図書館でも、資料らしき物を何一つ見つけられなかったのである。音楽に対する大きな感動とともに、冼星海という人物について知りたいという思いを、以後持ち続けることになった。(つづく)