オリンピックの聖火



 世界各地でトラブルを起こしているらしい「聖火」が、遂に日本にも来るらしい。良くも悪くも自己主張の乏しい国民性の故に、日本では、外国人がやって来て騒がない限りは何事もなく終わるのだろう、という気もしていたが、さすがにそれでは済まなかった。まあ、私自身は、中国のチベット支配は不当だともともと思っていたので、善光寺が出発点となることを拒否したと聞いた時は、安心もし、喜びもしたのである。

 二つのことを思う。ひとつは、中国で時折激しくなる反日行動が日中戦争の記憶(間接的=教育によるものも含めて)に基づくものであることとチベットを重ねて考えると、人間にとって自分を客観化することがいかに難しいか、ということ(「人のふり見て我がふり直せ」)。もうひとつは、オリンピックにおいて、スポーツと政治とを分けて考えることが本当に可能なのか、という古くて新しい問題だ。

 私は、スポーツと政治とを分けて考えるのは当然のことだと思っていたし、そうすることによって政治的メリット(対話のチャンス、感情の融和)も生まれ得る、と信じていた。しかし、チベットを支配する中国が、何の障害もなくオリンピックを成功させ、大国としての自信と経済的なメリットを手に入れるのは納得できないような気になってきた。

 オリンピックにしてもチベットにしても、所詮「傍観者」でしかない私がこんな風に思うのだから、そこに密接な利害関係を持つ人々が「スポーツと政治は別」と言っていられないのは当然だ。他人からは些細なことに見えるトラブルが、実際にはなかなか解決しないというのも同様なのだろう。「人間」とか「人の世」の難しさを思い、自分もその例外的存在ではないことを実感しながら、日々、ニュースを気にしている。