議論は結論を求めない



 成績にいろいろ問題があったこともあり、最近、授業で諸君との会話が不足気味であることもあり、学校評価の時期ということもあって、いつもより少し念の入ったアンケートを行って、勉強の意義や方法についてあれこれ考えてもらった。受動的な勉強から脱する一歩と思ってもらいたいが、教室内での議論の難しさは並大抵でない。

 ところで、某クラスで最後に質問を募ったところ、「で、これによって授業はどう変るのか?」という質問があった。私としても考えがなかったわけではないので、その時考えていたありのままを答えたが、少ししてから、失敗した、と思った。

 ひとつは、私の側から「では、君はどう変るのか?」と問い返すべきだったということ。そして更に、今回の議論で私が変えたかったのは、やり方ではなく、やる時の意識という形にならないものだったのではないか、ということだ。

 議論には、最後に結論を求めるものと求めないものとがある。結論を求めない議論とは、議論を通して考えること自体に価値があるものだ。結論を出して形を変えれば、人は何となく安心する。しかし、人間が内側からの衝動によって動いた時にこそ、本当の力が発揮できるものだとすると、むしろ、その安心・納得は本質から目を背けさせるという意味でマイナスだ。

 先日の「まとめプリント」を読んで、ずいぶんいろいろな考え方があることは分かったと思う。それを参考にしながら、自分のやることの価値を問い直すのは、とても人間的で価値のある作業である。それによる変化は外面的である必要はない。やることが同じでも、意識が違えば全ては変る。そういうものである。