『羅生門』という作品



 週末の二日間、私は家族で、教職員組合主催の教育研究会に出席していた(秋保温泉)。子連れだったので、妻と私のどちらかが子守をしながら、という変則的な若しくは中途半端な出席だったが、昨年までは、妻が出席して私は子守、という状態だったので、一歩前進と言ってよいのだろう。

 唯一、子供を妻に任せ、私が落ち着いて出席できたのは「国語」の分科会だった。2時間余りの会の最後に、芥川龍之介の『羅生門』が話題になった。その時、私が発言したことを、補足しながら、少し書き留めておくことにする。

 国語の先生達の前では恥ずかしくて、あまり大きな声で言えないのだが、私は芥川に感心したことというのがない。まぁ、価値がよく分からないのである。『羅生門』は、およそほとんど全ての教科書に登場する「定番」中の「定番」、いわば教材としての「古典」と言ってよい。しかし、芥川がよく分からない私のみならず、『羅生門』については、これが本当にいい教材かどうか、異論も多いと記憶する(かつて東京のある文学教育研究会がまとめた、『羅生門』と『こころ』の授業ばかりを特集した冊子に、そんな議論があったのを思い出し、帰宅してから探してみたが、どうしても見当たらない)。

 何かの機会に、私も考えたことがある。そして、ふと思ったことは、この作品に「モラル」を読み取ろうとするから混乱し、価値を疑うことになるのではないか、ということである。老婆のやったことが良いか悪いかにしても、下人の心の動きにしても、問題は至って単純である。真面目に考えれば、着衣の死体もあったと書いてあるのに、なぜ下人はわざわざ老婆から着物をはぎ取ったのか、などという理屈っぽい問いにも行き着いてしらけてしまう。また、「下人の行方は誰も知らない」、有名なこの最後の一文を元に、続きを想像させても、「知らない」と書いてある以上、分かるはずはないのである。「読む」よりも、過剰な想像ばかりが膨らんで、それを文学を読むことと誤解するのも教育上マイナスが大きい。

 坂口安吾に『文学のふるさと』という文章がある。これも時々、教科書に載っている。私には、独りよがりで、いい文章には思えない。しかし、その中で安吾が言っていることには、真実がある。それは、文学作品にはモラルを欠いた作品が存在するが、モラルがないこと自体が実はモラルだ、つまり、そこには生存それ自体が持っている絶対の孤独とも言うべきものがあるのであり、文学というのはそもそもそこを出発点とする、ということだ。

 この意見は、『羅生門』という作品に、実に上手く当てはまるような気がする。私の作文でもそうだが、人は何かにつけて文章に「教訓」や「モラル」を期待し、それを詮索するものである。しかし、それが常によい結果をもたらすとは限らないのではないか。モラルを無いとすることによって現れてくる、別の価値というものも文学にはあるかも知れない。

 では、モラルを抜きにした『羅生門』の教材としての価値とは何だろうか?それは、優れた情景描写であろう。文字情報を通して、現代を生きる我々にとって極めて異常で非現実的なその場の情景を読み取り、リアルに思い描いてみることが出来るかどうか、生徒にそんなトレーニングをさせるには格好の教材だと言えるようにも思う。だから、最近、この手の研究会でS先生から発表された、これを読んでイラストを描かせる授業は、この作品の扱い方として正攻法に思われる。

 今私が使っている「国語総合」の教科書にも、『羅生門』が載っている。2年間にまたがっての分割履修なので、それを扱うとしたら来年度のことになる。日頃、純文学に接する機会などほとんど無い生徒なので、『羅生門』に取り組むには勇気が要る。やろうかやるまいか・・・しばらく前から決心を付けかねて、思い悩んでいるのであるが、今回、他の先生方の議論を聞いていて、また、自分の『羅生門』観を整理してみて、少し「やる」方向に心が動きつつあるのを感じる。気が向けば、続報を書くことにしよう。