民主化闘争のニュースを見ながら



 独裁状態にあったいくつかの国における民主化闘争が、風雲急を告げている。そういうことが穏やかに進むことは、一般的に期待しにくいものだが、リビアのように、民衆に空爆を行うとなると、まったく目茶苦茶である。各国の民主化闘争を見ていて、二つのことを思う。

 一つは、「権力」というものの恐ろしさである。

 かつて、授業で次のような話をしたことがある。

 「人間の欲望は、大きく生物的欲望と社会的欲望に分かれる。生物的欲望とは、食欲であり、性欲であるが、根底にあるのは「種の保存」を目指すということである。社会的欲望の基本は、権力である。そもそも、社会というのは、人間が複数存在することによって成立する。複数の人間がいれば、必ず利害の対立が生まれ、利害が対立した時にそれをどう調整するかで力関係が生まれる。人間が複数いることによって生じた利害対立の中で、自分の欲望を遂げるために行使される制度的な力のことを「権力」というのである。人間がエゴイスティックな存在であるが故に、人は「権力」に対して、非常に強い魅力を感じるものらしい。その上、人間は、欲望が大きいから所有するのではなく、所有するから欲望を持つようになる、従って、所有すればするほど欲望は大きくなる、という性質をも持っている。だから、権力を握った人間は、その維持に対してとても大きな執着を持つものである。」

 民主化闘争における、独裁者の対応を見ていると、人間の持つこのような性質の強さと残忍さが、今更ながらにひしひしと伝わってくる。

 もう一つは、「精神的自由」というものの大切さである。

 今回、民主化闘争の起こっている国々は、決して貧しい国ではない。つまり、食えなくなった民衆が、一部の裕福な階層に対して、イチかバチか、やけくそで挑みかかっていった(中国革命などはこの類)、というものではない。バーレーンリビア産油国で、いくら独裁者が多くを吸い上げていたにしても、民衆が泥沼の貧困にあえぐ状態ではなかったはずだ(バーレーンの一人あたりGNIは約15000ドルで、旧東欧諸国をはるかに上回る。リビアバーレーンの3分の1に過ぎないが、それでもアフリカで1位である)。バーレーンなどは、東南アジア等からの出稼ぎ労働者に汚い仕事を押しつけ、国民は比較的裕福な生活をしていたのではなかったかと思う。大きな闘争に発展する可能性を常に垣間見せていながら、当局によって芽を摘まれている中国などは、すさまじい経済成長によって貧富の格差が拡大し、それが民衆の不満の種にもなっていると言われているが、あの自動車販売台数を見れば、ひとつまみの富裕層が、富の大半を牛耳っているなどという状態ではないことは明らかである。

 にもかかわらず、民主化闘争は起きる。強権的な政治に人々が反発したと言わる。バーレーンは、シーア派スンニ派の対立といった様相も含みはするが、いずれにしても、それらは「精神の自由」を求めての闘争である。

 このことは、人間にとって「精神の自由」がいかに大切か、それを奪われた時のストレスがいかに大きいかということを物語っているだろう。食っていくことが出来ていても、それだけで満足したりしない、そこに人間の真骨頂を見る思いがする。

 仮に現在闘争中の国でも、民主化が実現したら、今までよりも経済的に豊かになるのか?治安はよくなるのか?・・・そんなことは分からない。エジプトで問題になったように、その後の指導者として優れた人物が見つかるかどうかも重要なポイントになる。しかし、たとえよくならない、あるいは悪くなったとしても、主権を持つようになった人々は、少なくとも「あきらめ」を手に入れることが出来るだろうし、将来へ向けての「希望」を持つことも可能になるだろう。やはり、人間にとって、これは決定的に大切なことなのだ。

 「民主主義国家」日本でも、「精神的自由」が問題になる場面は少なからずあるように思う。「人のふり見て、我がふり直せ」。アフリカや中東の民主化運動を、対岸の火事と思ってはならない。