米大統領選挙と文化の違い



 早いもので11月。最近は5:10に私が起きる時には外が真っ暗。朝食の準備をしているうちに、外が深い紫色からだいだい色に変り、朝食を終えて6:10に家を出るちょうどその時、牡鹿半島から太陽が顔を出す。毎朝わずか1時間のうちに、地球における創世を目の当たりにしているようで感動的だ。とはいえ、この感動を味わえるのもあと僅か。12月には、家を出る時にもまだ真っ暗、という状態になってしまう。先のことを考えては、嫌だなぁ、と思う反面、1年のごく限られた時期だけ見ることが出来る光景だからこそ感動的だ、とも言える。「世は定めなきこそいみじけれ」(兼好)

 長い長い選挙運動の末に、ようやくアメリカの大統領選挙が投票日を迎えた。超大国の最高権力者を選ぶとあって、よその国のことながら、少なくともこの2年間、嫌というほど報道に接してきた。

 私も詳しくは憶えていないが、民主、共和両党の立候補指名のための党内選挙で盛り上がり、指名が決定すると、両候補による公開討論会を始めとするおびただしい集会とそこでの演説。インタビュー、海外を訪ねてはまた演説。副大統領候補を発表すると、今度は副大統領候補の言動も含めて批判にさらされる。その間に起こった世界恐慌とも言える経済危機等の重大な政治的課題について見解が問われ、過去の履歴も私生活も問題にされる・・・。それら全ての場面で、立候補者は繰り返し繰り返し、大統領としての資質を問い直される。

 精神的にも肉体的にも、とことんタフでなければアメリカの大統領にはなれない、とつくづく思う。日本の首相が決まるプロセスの他愛なさと、そうして決まった首相がコロコロ変るという日本の現状を思い浮かべては、これが日本とアメリカの違いなのだ、と思う。そしてこのことは、最高権力者選びに限られるわけがない。すなわち、スポーツでも学問でもビジネスでも、根底にあるこのような気質或いは文化の違いが、様々な形で反映されて来るに違いない。一言、気軽に「国際社会」と言うが、彼らと対等に競い合うというのは、漠然と想像するよりも遙かに大変なことであろう。