理想(本質)は長く、現実は短い



 日頃私がよく口にする格言めいた言葉の中に「理想(本質)は長く現実は短い」というものがある。言うまでもなく(?)、「芸術は長く人生は短い」という古代ギリシャの有名な格言のもじりである。

 「現実」などというものは日々刻々と変化し、ひどく寿命が短いのであって、いくら苦労をしても所詮はその場しのぎ。それに対して、「理想」の命は長い。理想を追求することによって生まれてきたものは、長い時間に渡って使い続けることができ、現実への対応もそこから可能になる(これは「古典」の性質と同じ。もちろん偶然ではない。高価なものは長く使い続けられる、安物は使い捨て、というのも実は同様)。これが上の格言の意味だ。私は、諸君に、向こう1〜2年間有効な生き方や知識を身につけるのではなくて、30〜40年以上に渡って使い続け、成長し続けることが出来るものを身に付けて欲しいと日々願い、それが何かを考えているのである。

 ところで、「理想」と「現実」は対義語として用いられることが多い。理想と現実が一致していると問題はないのだが、これがかけ離れると困ったことになる。理想を追い求めようとすると、「現実を見ろ!」と一喝され、現実への対応に汲々とすると、「夢がない」「志が低い」と馬鹿にされてしまうからである。程よいところを探り当てるのはなかなか難しい。

 しかしながら、あえて言う。少なくとも、学校や諸君においては、バランスを著しく欠いて理想側にぶれているのがよい。「現実」などというものは、それが一般に「理想」の対義語であることから分かるとおり、ずる賢い駆け引きや、不純な思惑を必ず求めるものであって、本来は学校にも若者にも似合わない。直面し、対応を迫られた時にやむをえず目を向ければそれでよく、なにも自分の側からすり寄っていくべき性質のものではないのである。一方、理想は意識して追いかけなければ追いかけられないし、それができる場所、それをすることが許される人など、あまり多くはない。

 さて、今年の1月から「3年ゼロ学期」、来年は「希望する進路実現の年」だそうである。要は大学入試を突破しろ、ということなのだが、この問題について追求すべき本質とは何だろうか。それは、大学入試の本質は競争であり、学問の本質は「未知が既知に変わる喜び」であり、従って、純粋に勉学との関係で考えれば大学入試は「本質」になれないということである。いわばただの「現実」なのであって、しかも、これは回避しようと思えば回避できる「現実」であり、まして、諸君にとっての義務などにはなり得ない。

 大学は行きたくなければ行かなくていい。そもそも、親が大学に行かせてくれことを、当たり前だなどと思ってはいけない。仮に進学が許されるとしても、受験勉強が大変であれば、一切勉強しなくても入れる大学は、今やたくさんある。「いい大学」に入ったからといって幸せが保証されたりはしない。一高の評判に諸君が気を遣う必要もなく、私の立場を心配してもらうにも及ばない。受験勉強に関する親や学校の対応に不満があったり、勉強をつらいと感じる瞬間があれば、このことを思い出し、受験勉強を放棄することを私は強く勧める。

 一方、幸いにして、大学に合格するために行う勉強、そこで身に付ける知識や考え方は、将来学問をしていく上で必要なものを多く含むし、何事かに自ら挑戦する姿勢と行動には、生きていく上での本質的な何かが含まれるだろう。だから私は、積極的に受験勉強を否定したりもしない。

 諸君にとってたいへん不幸なことに、最近は高校も経営という「現実」に敗北して、卑屈なまでに生徒にこびへつらい、諸君がそれらのような「理想(本質)」にたどり着けない状況を作り出している。来年、もしも私がこの学校・学年にいて諸君と接する機会があるならば、私は出来る限り「冷たい」教員になりたいと思っている。そのつもりで。

(『学年の手引き』に掲載)