トルコと旅行の価値



 ある近しい親戚がトルコを旅行して帰国し、土産をやるから出て来い、と声をかけられたので、土産はどうでもよいが、土産話は聞かせてもらおう、と出かけて行った。私も大昔、僅か3週間ほどながらトルコには行ったことがあった(1度目はイランからバスで国境を越え、アンカラカッパドキア、コンヤ、イスケンデルンを経てシリアに抜けた。2度目は旧ユーゴスラビアベオグラードから列車でイスタンブールに入り、アテネに飛んだ)ので、懐かしさもあり、トルコがどのように変ったのか知りたいという好奇心もあった。

 写真を見せてもらいながら二つのことを思った。ひとつは、団体旅行はつまらない、ということである。テレビや写真集で見る風景を確かめに行っただけのことではないか。そこで見る風景を中心に、全て出国前に決まっていることが、淡々とその通りに実現するだけで、何の「発見」もない話に、思わず居眠りしそうになった。もうひとつは、その親戚にとっては価値がないらしい、観光地ではない普通の街の写真やガイドブックを見ていて、トルコもこの20年で激変し、一部の自然の風景以外、私の知っているトルコなどどこにも存在しないのではないか、ということである。

 後者は深刻な問題だ。それは、旅行の価値とは一体何か、という問題だからである。つまり、20年余りでトルコが激変したとなれば、「私はトルコに行ったことがある。だからトルコを知っている」という主張は成り立たない。一方、「私が知っているのは20年あまり前のトルコだ。私の記憶には歴史資料としての価値がある」というのも釈然としない。

 思えば、この20年間で、仙台市の風景もすっかり変わってしまった。しかし、そこに連続性を否定する人なんか誰もいるまい。たとえ風景も人の生活も変ってしまったとしても、それは極めて表面的な部分だけのことだ。そして、パックツアーではなく、少なくとも自分の意志で主体的に、あっちでつまずき、こっちで転び、苦労しながら旅行している限り、自分の全身は、風景とか食べ物とか、街の作りとかに整理できず、またいちいち意識することさえ不可能な無数の要素を敏感に把握しているのだろうと思う。私達の日常の無数の経験が、それら一つ一つの価値は確かめられないけれど、一見無駄と思われるものまで含めて、間違いなく今の自分を作っている、というのと同様である。