能動性への道(授業の雑談考)



 2016年のオリンピックが、ブラジルはリオデジャネイロに決まったという話にコメントを求められたことをきっかけに、私がリオに行ったこともあったものだから脱線し、その後は各クラスのノリのよさに応じて、最近少々寄り道が多い。

 私は以前から余談を求められることの多い人間である。授業に関するアンケートなど採ると、私はいったい何の先生なの?みたいな結果になりがちである。多分、不名誉なことなのだろうと思う。もっとも、現在受け持っている62回生は、煽り方、ねだり方が今までになく下手くそなので、かつての回生に比べると余談の機会は相当に少ない。私は、準備万端整えて、自分の側から話し始めるといった講演会のようなことは、基本的にしないことにしているのである。

 授業で脱線をして横道にそれることが悪いとはあまり思わない。かつての一高の授業は雑談ばかりが多かったという話も、OBからよく聞くし、そこに批判的な雰囲気は感じられない。しかし、それは単なる授業つぶしであっては絶対にいけない。それなりの内容があり、それを通して諸君の脳が、授業のテキストを扱うよりも、むしろ活性化されるものでなくてはならない。そして、そのためには私の側の問題(話術やネタ)よりも、諸君の側のネタ探しや突っ込みの方がはるかに重要である。なぜなら、そのような作業や工夫を通じて、諸君はより一層能動的な「聞く」ことへのコンディションを獲得するからである。

 そんなことは通常の授業でも同じはずではないか、なのに、なぜ通常の授業はひどく淡々と始めるのか、という疑問が浮かぶ人もいるかも知れない。なに、諸君が授業本来のテーマに沿って、問を発し、突っ込みを入れられないだけの話である。同時に私の側でも、他の先生と進度は合わせなくてはいけないし、やるべきことが予定されているので、淡々と始めざるを得ないという事情もある。それが諸君を受け身にさせていることになるかどうか・・・?ちょっと悩ましいところだ。

 身の回りと私の様々な言葉からもっともっと疑問と話のきっかけを探し、私に働きかけ、能動的に授業に参加し、それが国語の勉強に還元されるようだと最強だ。