マーラーの第9交響曲



 週末、土曜日の夜は、仙台市内の某アマチュアオーケストラが、グスタフ・マーラーの第9交響曲を演奏するというので、授業が無くて外出の口実も作れない中、前々から妻にお願いして許可をもらい(笑、涙?)、1ヶ月以上前から周到に予習(復習?)を重ねて聴きに行った。

 この曲は、人生の悲哀を僅か80分に凝縮した、人間の芸術文化の頂点である、と私は思っている。特に第4楽章を聴いていると、私はこういう音楽の恩恵を受けるために、人間として生まれてきたのではないか、とさえ思うほどだ。それだけに、高い演奏技術と、何よりも、作曲者の思索と集中力の反映とも言える濃密なメッセージを表現し尽くすための強い「覚悟」が要求されるために、20世紀の曲としては(この曲の完成は99年前の1910年)さほど特別とは言えない編成(楽器の数と種類)であるにもかかわらず、演奏される機会は非常に少ない(仙台では、私が大学に入って以来30年近くの間で、今回が2回目のような気がする)。一方、それほどの作品なので、楽器を手にした以上、生涯に一度この曲に挑戦してみたいというアマチュア演奏家も多く、今回、そのオーケストラの定期演奏会が第50回を迎えたのを記念して「夢」の実現が企てられたということらしい。

 アマチュアというのは、たとえ技量でプロに劣っていても、「この1回」にかける気迫が並々でないので、あまり裏切られる心配がない。ましてこの曲となれば・・・(ただし、聴衆の質は非常に悪い。これが本当に残念!「付き合い」で足を運ぶ人が多いからだろう。そんな人にとって、この曲は拷問)。

 ところで、このような作品に接したとき、私の頭の中にいつも思い浮かぶ文章がある。小林秀雄の『美を求める心』という随筆の一節だ。「悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿があるように、放って置けば消えてしまう、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。」 もちろん「詩人」である必要はない。音楽家でも小説家でも画家でも同じことだ。

 マーラーのこの曲は、作曲者が迫り来る自らの死への恐怖と、娘を亡くした悲しみと、妻の不倫についての苦しみを託したものだと言われている。作曲者はやけを起こさず、八つ当たりをせず、それらの苦しみから決して逃げようとせず、じっと黙って耐え忍び、それらの正体を見極めた結果として、このような作品を生み出し得たのだろう。逆に言えば、苦しみから目を背け、自分をごまかし、むやみに外に向かって発散させることからよい仕事は生まれない、ということだ。この曲を聴きながら、私はそんなことの恐ろしさを思うのである。