考えて野球せい!



 休校問題、授業中の雑談、現代文の授業・・・と、最近、諸君の脳が多少なりとも活性化し、身の回りの様々なことについて「考える」傾向にあるのを実感するようになっている。

 「考える」すなわち、物事を疑い、根底から問い直す、ということが、諸君と接するに当たっての私のテーマであることは、入学以来、私と真面目に関わってきた人にはよく分かっているはずだ。僅か、とはいえ、この時期に及んで、そのことを実感できるようになっていることは喜ばしい。

 ところで、10月24日、クライマックスシリーズ第2ステージでの「楽天」の敗退が決まり、野村監督がユニフォームを脱いだ。その時のインタビューで、監督の考えが選手に根付いたか?との問いに対し、監督は「全然ダメ」と答えていたのが印象的だった。監督の考え方(基本方針)とは、言うまでもなく「考えて野球せい!」である。

 プロが、生活のかかっている厳しい競争の中で、考えて野球が出来ないというのは信じ難いことだが、よく考えてみると、「考える」というのはそれほど難しい、ということだ。

 人間には脳があり、意識があるから、自分は考えることくらい出来ると思ってしまう。逆に、それが落とし穴だ。目が見えるからといって、優れた絵画の価値が分かるとは限らず、誰かに説明されたり、繰り返し見ることによって、ようやくその良さが分かる、そして、それまで自分がいかに見えていなかったかということに気付く、という経験は誰にでもあるのではないだろうか。視覚障害がないことによって、「俺は見える」と思うことで、いよいよ「見える」ことから遠ざかるのである。自分には大してものは見えていないという謙虚な自覚と、「見える」ようになるための努力なしに、ものは見えるようにならない。「考える」でも「聞く」でも全く同じ。