背中を見せてくれる人



 何ヶ月か前の朝の打ち合わせで、元本校教員・穂積達郎先生から著書が寄贈されたという話があったのを思い出し、図書館で借りて、この1ヶ月ほどパラパラとページをめくっていた。この先生は、事情があって、生徒のいない所で定年退職を迎え、その後一年だけ一高で常勤講師をし、ここで実質的に教師としての定年を迎えたという方である。私が一高に来て二年目、今から五年前のことだったと思う。フランス語に堪能で、中世フランスの修道院についての研究を続けておられる、ということは聞いていた。私もその「最終講義」(これこそ一高らしいイベント!今でも企画として成り立つのかなぁ?)に出席したが、確かフランスの教会の建築様式の話だったと記憶する。

 さて、今回寄贈されたのは、マルセル・パコ著『クリュニー修道院(909〜1789)』、ミッシェル・ドゥ・ボウアール著『ギヨーム・ル・コンケラン(ウィリアム征服王の生涯)』、エドマン・プニョン著『ヨーロッパ紀元千年の日常生活』の3冊。いずれも先生ご自身の著書ではなく翻訳である。私が上で「読んだ」と書かなかった通り、なかなか門外漢の私には荷の重い本だったが、先生の学問に対する情熱に圧倒される思いを抱きながら目を通した。3冊で合計768ページ。私の大雑把な計算で、400字詰め原稿用紙3000枚分を超える。私は、教員が「大器」を育てるためには、いくらいかにも直接生徒のためになりそうなことばかりやっていてもダメで、自らがもっと普遍的な価値を追求している必要がある、と思っている。しかし、それは実際には容易なことではない。だから、この先生のような方には畏敬を感じてしまうのだ。

 勉強の基本は「自学」である、というのは自明な話だ。だとしたら、「先生」とは一体何をする人なのだろう?もちろん、「自学」していて解らないことを訪ねた時に教えてくれるのも先生だ。しかし、穂積先生のように、ひたむきに学び、その背中を見せることで、私(達?)が学ぶことを叱咤激励してくれるというのこそ、その本当の役割のような気がする。大学の先生でも、研究者よりも教師であることが求められる昨今、これは時代遅れな考えかも知れないけれど・・・。