一昨日未明、私が名取第一中学校に在籍していた時の恩師、阿部哲男先生が亡くなった。多分80歳であったと思う(81歳かも)。まだ河北新報にも訃報が出ないが、まったくの偶然、私の現在の勤務先に先生の甥御さんがいらっしゃるため、私はそのことをいち早く知ったのである。
私は、父の仕事の都合で中学2年の夏に転校したので、私が先生に受け持っていただいたのは、わずか1年3ヶ月ほどである。しかも、クラス担任ではなく、社会と体育の教科担任としてだった。なぜか、ずいぶんかわいがっていただいた。
兵庫で高校を出て、仙台の大学に入り、4年半ぶりで宮城県の住人となった後、時々先生のお宅にお邪魔しては、様々な知的刺激を受けた。先生のお話だけではなく、住井すゑ『橋のない川』、五味川純平『人間の条件』など、先生から勧められて読んだ名著は多い。激務の中学校教員、日曜日も部活動で午前中は学校という生活をしておられたところへ、日曜の午後に訪ねていっては妙な議論をふっかけたりしたことが、先生にとっていかにご負担だったか、ということを思うようになったのは、それから10年ほども経って自分が学校の教員になった後のことである。実に根気よくお付き合いいただき、教えていただいたことは、今更ながら感謝に堪えない。
確か、私が教員になった前後、まだ先生が40代の半ばだった頃に、奥様を病気で亡くされた。子どもがいなかったので、その後はずっとお一人。名取一中の校長を務めて定年退職し、引き続き名取市の教育長としてご活躍された。熱血漢で、教育に対する情熱並々ならぬものがあったが、引退されてからは教育の世界と完全に縁を切り、自宅でひっそりと読書三昧の日々を送っておられた。
相応の社会的地位にあった方ではあるが、考え方はリベラルで、政権とは対極に立っておられた。だからこそ、私とは性が合い、かわいがっても下さったのだろう。先生が退職された後も、私は2~3年に1度、先生宅を訪ねた。先生は、相変わらず鋭い社会批判や、読んだ本の読後感などをたくさんお話し下さった。これだけ強靱な批判的精神を持ち、社会の問題点もよく見えている方が、それを自らの内にたぎらせておくばかりで、一切発信も行動もしないことが私には残念であり、不満だった。この点については、今でも思いが変わらない。
先生が体調を崩しておられたことは知っていた。数年前、初めて脚部にガンの診断を受けた時は、かなりショックだったようだったが、治療の甲斐あって、病気は治癒したかに見えた。
今年の正月、年賀状が来ないので、もしや、と思っていたところ、2月10日になって「寒中見舞い」の葉書が届いた。昨年1月に腹痛を覚え、病院に行ったところ、末期の「横行結腸癌」との診断を受け、その後1年で4度の入退院をしたと経過を書いた上で、「1年にも及ぶ闘病生活に疲れ、今、我が家で自由を貪っています。」「コロナ禍にあって感染もせず生きていることが、奇跡的と思え、森羅万象に感謝しつつ、一日一日を大事に生きています。」などと続き、「皆様には、かけがえのないご厚情と温かい支援を賜り、心より感謝しております。コロナウイルスの最短の退場を願い、皆様に『本当の春』が、より多くの幸せが届きますようにと祈っております。ありがとうございました。お達者で」と結んであった。ここまでが印刷。そしてその下に、少したどたどしい自筆で、次のように書き添えてあった。
「お世話になりました。楽しく、おもしろい旅でした。『我が人生に悔い少しあり』というところ。」
明らかに遺書である。その夜、私は少し狼狽しながら先生に電話を差し上げた。声を聞く限りは、あまり以前と変わることなくお元気そうであったが、すっかり達観し、静かに死を受け入れようとしている様子が伝わってきた。私が、近日中にお邪魔してよろしいか伺ったところ、とてもそのような状態ではない、と断られた。
私は、電話を差し上げたことそのものが失礼だったのではないかと思った。誇り高き人間であった先生は、病み衰え、死を待つばかりの自分を人に見られたいとは思わなかったのだ。そして遺書を下さったのだ。それが「別れ」の全てであり、その後、私が電話を差し上げたのは蛇足でしかなかった。
私と先生との40年あまりの関係は、いささかの後悔とともに終わった。一方、先生がこの世に残した少しの「悔い」とは・・・?私はそれが何か知っているのだが、もちろん、ここに書くべきではない。人生は哀しい。合掌