「年賀状」再発見



謹賀新年

「謹賀新年」とは書いたものの、私の父親が昨夏亡くなったので、今年は我が家の「お正月」は無し。よって年賀状もなく、例年新春のこのプリントには私の年賀状を掲載していたが、それも無し(それでもなぜか子供に「お年玉」はやらない訳にはいかない。経済は何にもまして強い、ということか・・・?)。そもそも、身内が死んだから即「お正月は無し」というのは、ひどく形式的で無意味な「礼儀作法」であると、私は日頃からけっこう小馬鹿にしていたのであるが、「礼儀作法」にはたいした意味はなくなくても大切なものもあることなので、今回ばかりは従うことにした。

 ところで、12月に入ると、いろいろな人から「喪中欠礼」の葉書が届く。私は出さなかった。「無意味な礼儀作法」のシンボルだというのもあるにはあるが、それを出すことで年賀状が来なくなるのは寂しいし、いつも一年間の自分を出来るだけ伝えられるような文章を苦心惨憺しながら考えて送っていたので、もらう側としても「喪中欠礼」では寂しいだろうから、ここは「寒中お見舞い」として、例年の年賀状並みの文章を印刷して、1月半ば過ぎにでも送ろうと思ったのである。

 予想通り、私の父の死を知らない人々から、例年の約8割の数の年賀状が届いた。それらに目を通しながら、今年のやり方はいいな、と思った。知人の中には、年賀状だけの付き合いになった人も多い。ところが、例年は、お互いに全く同時に着くように葉書を出す訳だから、何を書いても言葉はすれ違い、対話=コミュニケーションというものが成立しない。時に、翌年の年賀状に返信のようなコメントを書くということをしてみたりするが、何とも間の抜けた感じだ。今年のように、受け取った年賀状を見ながら「寒中お見舞い」を書くとなると、僅か1ヶ月の内に、片面的とはいえ、言葉のやりとりが成立する。「年賀状」というのは便利で美しい習慣だとは思うけれども(最近の若者は年賀状すら本当に書かないよねぇ?)、その秩序が崩れることによる新しい可能性を発見した新年であった。

(注)「お正月は無し」とか「喪中につき〜」というのは、もともと中国の儒教における礼儀作法に関わる話で、余りにも悲しみが激しいものだから、とても何かを祝うという気にはなりません、ごめんなさい・・・ということだったと思う。真面目に中国(儒教)流に従えば、親が死んだら3年間、仕事にも出ずに家に閉じこもることになっているのだからメチャクチャである。もちろんそれが本心ならそれでよいのだが、いつの間にか、親が死んでそれくらい悲しくないようでは「人でなし」だというような見方が確立し、悲しくても悲しくなくても、形だけは守る、ということになってしまったようだし、少なくとも現代的感覚から見れば、「病的」もしくは「異常」でもある。今、私が「ひどく形式的で無意味な「礼儀作法」」と書いても、さほど間違ってはいるまい。