かゆいところに手が届かない「教育論」



(裏面:12月26日付朝日新聞 丹羽健夫氏への取材記事「養成課程6年間?教員の質下げますよ」引用)

 政治の場で「教育」は常に議論されているが、およそその内容は「机上の空論」というレベルにさえ到達しないようなお粗末が大半である。そうしたところ、年末のある日、久々に「机上の空論」を少し超えた、マシな教育論を一般紙で読んだ。この記事に関連して、少し私の思うところを付け足しておこう。教員志望者もいれば、今志望していなくても教職に就く人(←私もこのパターン)はいるであろう学校なので、問題提起として多少の意味は持つのではないか。

 教育に関する議論のお粗末は、「教育とは本来どうあるべきか」という哲学の不足と、面倒な「お金」の問題には目をつぶる、というのがその主たる原因であろう。だいたい、自分の思い出に残る先生の顔を一人二人思い出して、どうすればそんな先生が現れるかと考えてみれば、「免許更新制」も「教員養成課程6年制」も出てくるわけがない。「教員養成課程6年制」なんて、そんなことを考えなくても、合格率3割で既に暗雲漂ってきた法科大学院を見れば、その結末は火を見るよりも明らかだ。

 私は、教師の実力とは人格(もしくは人間性)が8割、知識が2割だと思っている。この何とも得体の知れない「人格」というものが、実力とほとんどイコールであるところに恐ろしさがある。

 ところで、なかなか立派なこの記事にも、私が見ると、非常に大きな弱点が二つある。

1:フィンランドのように2ヶ月以上の夏休みを保証した時、「教員は楽で安定しているからいい」という理由で希望する人が増えないか?その場合、希望者がたくさん現れれば、いい人材が集まる、ということになるのか?

2:教員に、どのような教育をするかについての自由(独立性)と尊厳がない(年々奪われていく)という現実に触れていない。

 つまり、2ヶ月の夏休みが資質を高めるために有効利用されるには、使命感や責任感という内側から自分を支えるものが必要なのであって、私が見たところ、この点で日本人はヨーロッパ人に大きく劣っている。丹羽氏が「修士という部分だけを安易にまねしたら大変なことにな」ると言うのは、実はこの点でも同様なのである。これを克服するのは、国民性の問題もあって容易ではない。日本人は、常に誰かに監視されたり、利益につられたりしていないと、するべきことができない、という傾向を持つように思う。

 会社に勤める人が独立願望を持ち、芸術家のようないわゆる「自由業」が人気を集めるように、人には自分のやり方で自分を表現したい、自分の信条にのみ従いたい、という根源的な欲求がある(以前授業でやった、人間の社会的欲求の原点は権力欲という話と関連する)。日本はそれを「お上」の力でコントロールするのが昔から好きだった。「お上」の側で好きだっただけではなく、個々人の内面が確立していないために、そのようにされることが気楽で好ましいこと、もしくは、そうしてくれなければ不安だ、という心理が下々の側にもあったようにも思う。

 教育現場は、私が教員になってからの僅か20年だけを見ても、無残と言ってよいほどに「お上(国、県、校長)」の権限が大きくなり、一人一人の教職員の立場は小さくなった。加えて、マスコミが様々な教育問題を取り上げる中で、現場の教員はどうしても悪者にされがちである。つまり、子ども達に問題がある場合、国や自治体の責任は間接的で見えにくく、家庭教育にはなかなか踏み込めない結果として、常に学校教育現場がやり玉にあがるようになった。何事かがうまくいかなければ、悪いのは常に「指導力に欠ける」現場の先生なのである(今の教員に力量不足が見られることを棚に上げる気はない。また、多くの優れた(寛容な?)生徒と保護者のおかげで、一高での私がそういう苦しみ方をしているわけではない。あくまでも私の見聞に基づく一般論)。

 更には、世の中全体の反映として、若しくは少子化時代の生徒の奪い合いの結果、目先の、目に見える結果ばかりが求められるようになってきた。大学進学であれ、就職であれ、スポーツや学芸であれ、とにかく結果を出すことが至上命題となり、数値目標を掲げることが自治体によっても義務化または奨励され、それに首根っこを押さえつけられるようにして、やることなすこと夢がなく、スケールが小さくなってゆく。

 これでは、理想に燃えている人ほど苦しむことになるのは明白だ。自由がなく、自分なりの理想が追求できず、誇りが持てない仕事に就きたがる人がいるわけはなく、逆に、それらさえあれば待遇なんてもっと悪くても(1に関わる部分)教師になりたい人は増えると思う(待遇なんて悪い方が、打算的でない、理想に燃える純粋な人物を集めやすいのではないか、とさえ私は思っている)。その意味で、2の方がより一層大切だ。私が教員になった頃は、私が教員だと言うと「いいわねえ」とよく言われたものだが、今は「大変ねえ」と言われることが増えた。世間の人々にも、まだまだ不十分ではあるが、既に現在の教員の置かれた状況が分かってきているのである。

 単に生活が安定しているという理由で、教員という仕事が羨ましいというのではなく、やりがいがありそうだ、という意味で羨ましいと思える状況があれば、全ては好転し、解決する。このための最初の具体的なステップとしては、教員を雑務から解放する、といった論者の主張も重要だが、核心をもっとはっきり突いて欲しかった、というもどかしさはどうしても残る。