冬山または困難の向こうにある魅力



 週末、土〜日は、例によって部活で山へ行っていた。目指すは冬の井戸沢小屋。天候次第では刈田岳の頂上にも立とう、という計画であった。

 天気図を見ながら、晴れはしないまでも、比較的落ち着いた二日間になるのでは?と淡い期待をしたりしていたのであるが、何と言っても、そこは「冬の蔵王」である。状況の厳しさを知りつつ、まぁ、生徒に冬の山というのがどれほどのものか多少は教えてやるか、と頂上を目指した二日目、一歩進む毎に風は加速度的に強まり、頂上まで半径50m以内には到達したと思われる場所まで行って、遂に視界が20m程度にまで落ち、体感温度(気温−風速)も−15〜20℃になったと思われたので、この辺でよかろう(これが限界)と下山した。

 雪が10センチ積もるだけで夏道は消え、すると目的地にたどり着くことは突然極端に難しくなる。積雪が1mを超えたこの時期、井戸沢小屋を探すということ自体が、素人には手に負えない困難な作業だ。小屋泊まりの時にはそれでもよいが、テント泊となると、設営から水作りを始めとする生活技術の全てに至るまで、本当にこれが同じ山か、というほど難度は上がる。自然に対する人間という存在の小ささ、弱さを切実に感じるのも冬山でこそ、の話だ。

 当然ながら、そこでは、地形図とコンパスを使って山を歩く技術、様々な生活技術(段取りと創意工夫)の本当のレベルがむき出しになる。私は、冬山の静けさ、ごくまれに見ることの出来る澄み切った風景の美しさを愛するとはいえ、自らテントを担いででも冬の山に行こうという気合いの入った人間ではない。しかし、甘えを許さず、ごまかしの利かない困難な世界に立ち向かうことに快感と充実とを感じる人の気持ちが、少しは解るような気がするし、そのような人に多少の畏敬の念をも抱く。そして恐らく、冬の山はその本当の美しさと魅力とを、そのような人に対してしか明かさないのだろうな、と思う。困難は常にそうした性質を持つ。