詩人の領域、または、焚き火の魅力について



 運動部を持っていない私は、ゴールデンウィークが丸々の休みであった。こういう時に、他の先生方に対して申し訳ないような気持ちになるのは、正しい感覚なのかなぁ?

 それはともかく、部活がなかったかと言えばそうではない。というのも、「登山歴のある山岳部顧問の後任が手配できなかった時には、一高に留任させて欲しい」と言っていた希望がかなえられなかったため、今年度、私は一高山岳部の「コーチ」に就任したからである。「公務」はないが「部活」はあったのだ。

5月2〜3日、共学化で期待された女子部員はおろか、新入部員が一人も入らなかった寂しい山岳部のメンバーは、新顧問の「歓迎山行」として、北泉ヶ岳へと繰り出した。今年は春になっても気温が上がらなかったために雪が溶けず、着いたキャンプサイトは一面の雪原であった。

 生徒が、夜、「焚き火をしてよいか」と尋ねるので、「出来るもんならやってみろ」と答えた。たくさん生えているブナの木の根元は地面が見えているところもあったが、とても焚き火が出来る状況には見えなかったのである。

 夕食も済んで、辺りがすっかり暗くなった頃、テントの中で大人同士語り合っていたところ、生徒が「火が着きましたよ」と呼ぶ。ごそごそとテントから顔を出してみると、本当に火が燃えていた。生徒は、ブナの木元の地肌を拡張して、火をつけることに成功したのである。執念の勝利と言ってよいだろう。

 生徒(山に登る人、と言うべきかも)は焚き火をするのが本当に好きだ。山小屋に行っても、飯の準備より先に、薪の心配をする。現代っ子には似つかわしくないようにも思うが、それはただの先入観に過ぎないということなのか、「火を焚く」ということに、もっともっと普遍的な魅力があるということなのか、おそらくは後者であろう。焚き火の魅力が何か、ここからはむしろ「詩人」の領域になる。やってみれば自ずから分かることでもあり、私が野暮な説明をすべきことではない。そしてむしろ、そのように理屈っぽい説明を拒絶するところに焚き火の魅力はあるのであり、だからこそ、よりいっそう奥が深い、ということなのだろうと思う。

  思えば私は高校時代、よく自宅の庭に一斗缶改造の焼却炉を置いて家のゴミを燃やし、その火を飽かず眺めていたものである。これは、小説を読んだり、芸術作品に接するのと同様の情操トレーニングであって、とても価値のある大切な体験だと思う。昨今は、ダイオキシン云々ということで、学校や家庭でゴミを燃やすことさえ禁止という世知辛い世の中である。場所さえわきまえれば、焚き火自体がとやかく言われることのない山という場所は貴重である。

 生徒は燃える火を見つめながら、3年生の引退を目前にして、受けを狙うことなく、正攻法で部員獲得のために努力しようと語り合っていた。その決意が、焚き火によってより心の奥底に根ざす強固なものになったのかどうか・・・?朗報を楽しみにしようと思う。