ホンネとタテマエ・・・大相撲のゴタゴタ



 大相撲が混乱している。昨日今日あたり、さまざまな処分や方針が決まって、およそ一段落といった所かと思うが、懸賞金の中止や、放映に関わるゴタゴタなど、もうしばらくは尾を引くことだろう。

 だいたい世の中が大騒ぎする時に限って、斜に構える傾向の強い私であるが、今回も例外ではない。そもそも力士が賭け事に興じたことの社会的影響の大きさなんて、必ずしも力士の悪事が大きいのではなく、メディアが異常に発達した結果なのである。メディアが今のように化け物のごとく発達していなければ、全ては内輪のゴタゴタに過ぎなかったのである。大嶽親方(元貴闘力)のように数千万円の単位ともなると、ことはいささか深刻であるが(暴力団との関係については更にケシカラン。しかし、無自覚であったとすれば、事情が明らかになった後に責めても仕方がない)、そうでなければ、これを大騒ぎすることによって、自分の身に危機を感じる人も少なくあるまい。

 そのことから関係して、私が困ったことだと思うのは、メディアによって公の場に引き出されてしまうと、事は全てタテマエによって裁かれるしかないということである。物事には大抵の場合、ホンネとタテマエがあるのだが、私はホンネは下に根ざし、タテマエは上に基づくと思っている。つまり、ホンネが人間の自然な生活と感情に基づくのに対し、タテマエというのは形式的である。政治の世界では、何事かが「民意」によって求められはしたものの、それが実現困難であるために、いかにも「民意」を反映させたふりをするというパフォーマンスが行われる。規則はもめ事が起こった時にのみ適用されるべきものであるのに、もめ事が起こらなくても、規則があることによって守る義務が生じ、いわゆる「融通」が利かなくなる。それがタテマエというやつだ。それは一見いかにも「民意」であり、合理的であるために誰も表だって反対は出来ない。しかし、人間という生き物がもともと合理的ではないために、その合理性は人間にとって不合理である。

 白鴎の賭け花札が、お詫びで済んだのは一抹の救いである。世の中には決して許してはいけない悪があるのも確かだが、なんでもやっつければ世の中が良くなる、というものでもない。人間が、生み出した科学技術を、いかなる弊害があろうとも使わずにはいられないのと同様、人間はメディアの暴走も止められず、メディアが暴走すれば、タテマエが威張り始める。これによって、人間の持つ不合理さが許容されず、人間の本性とむしろ反対の方向へばかり進むことを強いられるようになるというのは、なんと窮屈なことであろうか。私の目に見える問題は、決して野球賭博ではない。