民主主義国家における、事の軽重



 参議院選挙が終わった。結果について云々する立場でもない。民主党の敗北が、沖縄問題や消費税問題だという見解については首をかしげただけである。自民党が多数党になったって、それらが別の方向に向って解決するわけではないのだから・・・。

 当然のこととして投票には行った。いつもいつものことながら選択は悩ましいと思った。考え方が自分の考えと100%一致する政党・候補者などあろう訳が無く、どこに着目して選ぶべきかを考えながら右往左往するのである。政治家の皆さんには、当選したからと言って、少なくとも投票者からは100%の支持を得たなどとくれぐれも誤解しないで頂きたいと思う。

 結局のところ、私が今回やむを得ず注目したのは、将来議員定数をどうするかという問題だ。財政問題と絡めて、議員定数削減の話は以前からあるが、それらは大抵(全て?)比例代表からの削減案だ。それが実行されれば、少数政党に代表を送り込む余地はない。少数意見も含めて、出来るだけいろいろな意見を表明する自由があり、それに耳を傾ける余地を持つことに「民主主義」の真髄がある、と思っている私としては、それは民主国家の自殺行為なのである。消費税が上がろうが、沖縄の米軍基地がどうなろうが、失政が行われたと思った時には、考え直せばよい。しかし、民主主義が崩壊してしまったら、考え直すこと自体が不可能になってしまう。そういう意味で、国会議員の数や選び方の問題を、他の具体的な諸問題と同一に考えてはいけない、と思う。

 いろいろな意見を持つ人間が集まれば、議論は煩わしく、ものごとの決定は遅くなる。一方、物事は多角的にとらえられ、狭量な暴走はしにくい。それが民主主義だ。デメリットに注目することで、メリットを失ってしまうことのないようにしたいものだ。こういう場合、メリットとデメリットは同時には現れず、大抵は目先のメリットに数倍(数十倍?数百倍?)するデメリットが将来に現れる、というのが歴史の法則だ。たとえ財政等の問題で議員定数を削減するとしても、小選挙区の線引きを変更する形で決着すればよい。議員同士の利害関係によって、決着を付けられないからと言って、比例代表からというのは安易で、危険である。