沖縄訪問記(1)・・・基地のことなど



 8月3日から7日までのたった5日間、沖縄に行っていた。恥ずかしながら初めてである。25年ほど前の話になるが、台湾の帰りだったかに、上空からその島影を見たことがあったような気はする。以前から一度行ってみたいと思いつつ、海外に比べると面白くなさそうだし、その割高感にも恐れをなして、なかなか実現の踏ん切りが付かずにいた。

 昨年来、沖縄の米軍基地問題がヒートアップするにつれて、やはり一度現場を見てみたいという思いがつのってきた。子どもが年齢的にお金のかからない時期もあとわずかだし・・・と考えて、5月の末ぐらいにその踏ん切りを付ける決心をした。

 幼い子供を二人連れての家族旅行なので、私にとっての主眼である社会科見学に関し、あまり多くは期待していなかったが、実際その通りであった。というわけで、わずか5日間に何を見ることができたという程でもないのだが、若干の印象はメモしておこうと思う。


 無茶苦茶に暑かった。新聞を見ると、気温(特に最高気温)はむしろ仙台より低いくらいなのに、どうしてこんなに暑いのか、と思った。日射しの強さなのか湿度なのか・・・?そして、雲の固まりが後から後から流れてきて、スコールのような強いにわか雨を瞬間的に降らせる。何をしていても落ち着かないが、そこに「南」を感じたのも確かだ。暑さの質も雨の降り方もまったく違う。もっとも、今年はいつになく雨の多い年だ、と現地の人は言っていたから、いつもがこうだというわけではないようだ。


 沖縄は外国であった。

 よく観光ポスターなどで見る、赤い瓦屋根の平屋で、石垣を巡らした「沖縄風」の住宅はほとんど目にしない。田舎に建っている家の多くは、失礼ながら少々安っぽい感じのコンクリート製の二階建てで、中国の南の方の新しい家とよく似ている。店の看板なども、軍関係のアメリカ人が多いことによる英語(ローマ字)混じりが多いのは仕方がないとしても、書体が微妙に本土と違う。町を歩く人の風貌も違う。市場は予想していたほど異質な感じはしなかった。アジアの他の国々の市場に比べれば、全然迫力に欠ける。しかし、特に青や赤の原色系の魚が多く並ぶ魚屋は、他国で魚屋が比較的マイナーな存在であるおかげと言うべきか、それなりに楽しむことは出来た。日本語は通じるものの、違うところへ来たな、という気分には間違いなく浸る。


 本来の問題意識は太平洋戦争と米軍であった。戦跡については、かろうじて海軍司令部壕跡、ひめゆりの塔(資料館)と平和祈念公園摩文仁の丘)だけ行った。基地は嘉数高台公園から普天間基地を、嘉手納道の駅4階の展望台から嘉手納基地を見た。他に、車で走りながらキャンプ瑞慶覧、トリイ通信基地、牧港補給基地、キャンプシュワブ等を眺めた。

 戦跡関係では、しらゆり平和祈念資料館で、常時語り部が来場者に向かって自分の体験を語っていたのが驚きだった。生き残った方が少ない上に、年齢が80歳にもなるのである。時間を決めて、交代しながらとはいえ、毎日毎日一日中来場者に語り続けるというのは、驚くべきエネルギーであり、それを可能にしている彼女たちの思いの強さというものは印象的だった。

 また、その中で、この資料館が政府の紐付きになってはいけないと、寄付金だけで建てられた、という話に感銘を受けた。政府の紐付きになれば、かつてのように政府が暴走を始めた時、それに従って流されるしかない。自分たちの体験に基づいて、政府に対して独自の発言をするのだ、という気概は、あらゆる場所で必要なことだと思った。

 米軍基地については、「やっぱり沖縄の基地はとんでもないなぁ」という感慨を抱くというのが出発前のシナリオだったのだが、幸か不幸か、そうはならなかった。アメリカ人というのは、あの狭い島の中でも、アメリカ本土と同じ感覚で土地を使わなければ気が済まないのだな、という感慨は抱いたものの、予想していた、市街地を超低空で轟音を立てながら頻繁に軍用機が飛び交う様子などは目に出来ず、街を行く「Y」ナンバーの車(米軍関係者の車のナンバーは、本来ひらがなが書いてあるべき場所に「Y」と書いてある。車種はほとんど日本車)を見ても、他の日本人の車と何が違うわけでもなく、その結果として、何の緊張感も感じることは出来なかったのである。軍隊=戦争による問題解決の是非を別にすれば、基地が全てなくなった時の経済的損失と、基地が存在することの負担とを比べた場合、前者の方がより一層深刻なのではなかろうか、とさえ感じた。

 しかし、これによって、私が沖縄の米軍基地の積極的容認派になった、というわけでもない。あれだけ大きな、日本離れしたと言ってもよい規模の集会が開かれ、自民党系の知事を始め、多くの首長が口をそろえて県内移設を拒むという事実は重い。旅行者の目というのはしょせんこの程度のものだ、ということを改めて認識しただけである。私たちは、自分が見たことに基づいて何かを語ることについて、常に自戒の念を持っていなければならない、ということだ。

 噂の辺野古にも行った。しかし、普天間基地の移設先が「辺野古のキャンプシュワブ沖」と表現されるとおり、キャンプシュワブに入っていかない限り、辺野古集落から候補地は見えない。辺野古は人の気配のない、ひっそりとした集落で、「ここに普天間を持って来るな」式の看板類も、思ったほど多くはなかった。


 途中立ち寄った喜屋武岬、そして平和祈念公園摩文仁)の風景は素晴らしかった。昔から、よく人間と自然を対比して、「はかない人事と悠久の自然」といった言い方がされるけれども、それは長い時間的スケールで考えた場合の話だ。戦争が行われていた当時も、この美しい風景は存在していた。言い方を変えれば、この美しい風景の中で、あの戦争は行われていたのである。それは、現在の美しい沖縄に米軍基地が多数存在するのと似ているが、当時の方がそのアンバランスはより一層極端であっただろう。私は、何とも言えない違和感を感じる。ある瞬間に目を向ければ、人間と自然の対比はむしろ「醜い人事と美しい自然」という表現がふさわしい。