『ペレアスとメリザンド』または「古典」について



 昨日の午後は、1年ぶりで仙台フィルの演奏会に行った。実は、ちょうど1年前に、ヴェルディのレクイエムを演奏するというので、喜び勇んで聴きに行き、ある特殊(貴重?)で興味深い、それでいて非常に不愉快な体験をしたため、このオーケストラの演奏会に足を運ぶのが億劫になっていたのである。しかし、今回は定期演奏会の第250回を記念して、ドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』を演奏会形式で上演するという。仙台にはプロのオーケストラが一つしかないので、いつまでもいじけていてはこちらの負け(損?)になるし、最近は外国(旧東欧)の歌劇場が年に1〜2度仙台にも来るようにはなったものの、演目はモーツァルトヴェルディプッチーニに限られ、ドビュッシーなんて金輪際演奏されることはないだろうから・・・と、重い腰を上げたのである。私はこの曲を聴いたことは全くないが、ドビュッシーの音楽への評価は人後に落ちないつもりである。

 多くの人の知る通り、私は大変欲の深い人間で、見るもの聞くもの接するもの、全てが最上のものでないと気が済まない。にもかかわらず、最上のものを見抜く力が、特に芸術や文学については甚だ心許ない。そうなると、確実なのは「古典」なのである。授業でもよく言った通り、最上のものしか「古典」として生き残ることはできないからだ。だから私は、「古典」を手に取っては、その作品が古典になり得た理由は何か、という形で探究を始める。「古典」としての評価が確立している作品であれば、その価値が分からないのは私が悪い、分かるまで勉強するしかない、と考える。その考え方・やり方のおかげで、いい思いは沢山してきたと思う。

 『ペレアスとメリザンド』は「古典」なのだろうか?私はまずこの資格審査を行う。その結果、何を見ても、ドビュッシーまたは印象派の最高傑作の一つと評価されている。私が「古典」として信用する、作られてから100年という基準も、完成が1895年、初演が1902年だから、クリアーしている。「古典」としての地位を確立していることは間違いないと言ってよいだろう。しかも、ドビュッシーが『海』や『映像』といった名曲の作者だから、この曲にも光が当たる、というようなものではなく、むしろ、この作品がドビュッシーの名を高めるのに貢献しているというような、いわゆる「代表作」ですらあるらしい。

5月にCDを買ってきて予習を始め、ごく一般的な解説書やフランス音楽史の類は目を通したのであるが、残念ながら静寂の中で音楽を聴くような環境がないこともあり、歌劇に付き物の「歌(アリア)」が存在しないことに対する違和感もあって、だんだん当初の意欲が萎え、やがて「実際に生で聴けば分かるさ・・・」などとうそぶきつつ、1ヶ月くらいで予習を放棄してしまった。そもそも、音楽以前の問題として、こんな戯曲に、ドビュッシーがなぜ魅力を感じたのかすら理解不能だったのである。

 さて、昨日・・・

 私は約3時間余り、もともと好きなドビュッシー独特の音楽世界に身を浸し、非常にいい気分にはなったけれども、音楽をまるで映画の効果音のように用い、終始一貫、声にメロディーというほどのものがない(バッハなら、同じ「語り」でももっと音楽らしい)ということが、「歌劇」における音楽のあり方としていいのかどうか、音楽があるからこそ、この戯曲のドラマ性が数段高まったと言えるのかどうか、ということになると、最後までよく分からなかった。もっとも、この曲の初演はさんざんな不評で、公演が14回繰り返されるに及んで、ようやく人々に受け入れられるようになったというから、私如きが1度聴いて分からないのも当然なのかも知れない。

 「やっぱり分からなかったし、古典なんて面倒くさいからや〜めた」とはならない。やはり、私のような非才の人間が、最上の作品に出会う最も確実な方法は、「古典」を手に取ることなのである。なぜか終演後にくれた佐伯一麦の講演(『「ペレアスとメリザンド」をめぐって・・・ドビュッシーメーテルリンク』)を起こした冊子を読んで、ドビュッシーがなぜこの戯曲に魅力を感じたかがようやく腑に落ちたことでもあり、実演に接したからこそ分かった形象描写や微かな音の襞もあったので、上に書いたような疑問を課題として、今後時折思い出してはCDで聴いてみよう、今はそう思っている。