たかが「書き順」、されど「書き順」



 最近、走ること以外に「書き順」の矯正というのに取り組んでいる。以前から、自分の書き順には多々問題があることを自覚していたが、これがなかなかのコンプレックスとなっていた。何しろ、生徒を前にして黒板に字を書くことを職業としている(?)わけだから、教育上はなはだよろしくないのももちろんであるし、本物の「月曜プリント」を見ていた人はよく知っているあの幼い字も、もしかすると書き順が間違っていることによっていたかもしれない。

 何かの間違いで、今月の16日に「研究授業」というのをやらなければならなくなってしまった。どっちみち、授業は相手のあることで、なかなか授業らしい授業にならず困っているわけだから、そこはどうしようもない。下手な授業を見せて、人に自信と安心を与えるのもよいだろう。しかし、漢字の書き順をじろじろ見られて笑われるのはいやだなあと思い、これをよい機会と一念発起した、というわけである。

 現在、『書道』の授業(私が担当しているわけではない)で使っている漢字の問題集には、全ての漢字について書き順が書いてあるので、寸暇を惜しんでこれを見ながら、空中に字を書き書き、矯正に励んでいる。

 実は、昔、自己流でせっせとピアノの練習に励んでいたことがあった。もともと素質に欠けていることもあり、人に聴かせられるほど上手くはならなかったが、ここでも壁になったのは「指使い(運指)」である。その場しのぎのでたらめな指使いでアクロバチックにピアノを弾き、やがてそれが自分の首を絞める形で、伸び悩むという袋小路に陥ったのである。やはり恐ろしげな先生を横にし、変な指使いをするたびに手をぴしゃぴしゃやってもらわないと、基本という面倒なものは身に付かない。そして、その間違いに気が付いた時には既に遅く、直そうと思ってもなかなか直らないものだとつくづく思った。

漢字も同じである。新しい漢字を覚えることはできる。しかし、一度身に付いた漢字の書き順を矯正するというのは非常に困難な作業である。私は、文章を書くのは決して早くないが、字を書くのはけっこう早い。書き順などほとんど意識に上ることはない。日頃意識していなかったことを意識すると、それだけで不都合が生じる。書き順を意識したとたん、同様に普段意識したことのない字の形が意識され、なんだか見慣れない物を見るような違和感に襲われ、ど忘れした時のように字が書けなくなってしまう、といった具合である。

 基本は絶対に大切だ。字の形さえ合っていればいいようにも思うが、そこは「古典」と同じこと。昔から人が最も合理的と考え、受け継いできた書き順を無視することが、何もマイナスを生まないはずがない。「文字は人なり」。字は恐ろしいほどその人の品性を表す。書き順がデタラメであることによって生じた字のゆがみは、正に基本などどうでもいい、外見だけ取り繕おう、という考え方を反映しているのではないだろうか。単に字が下手だ、という問題ではない。さて、あと2週間。そんな自分の過去の生き方そのものを矯正するような作業を、やり遂げることができるのかどうか・・・?