ビデオ流出問題雑感



 う〜ん、実にケシカラン、しかし、犯人を特定するのは難しいだろうなぁ、と思っていた例の映像流出事件の犯人は、意外なほど簡単に自供という形で見つかってしまった。思うことがいくつかある。

1)犯人であったらしい海上保安官は、おそらくとてもいい人なのだと思う。人間には、悪いことをしても平然としていられる人とそうでない人がいて、前者が本物の悪人だ。我が愛読書『新約聖書』の中でイエスが繰り返し「誓ってはならない」と言う通り、自分は決して悪いことなんかしません、と思っていても、私自身も含めて、人間の心は弱く、視野は狭いので、状況次第で何をしてしまうかなど分かったものではない。この「犯人」も、何かの拍子で映像を流出させてはしまったものの、反響の大きさに驚き、流出場所が特定されるに及んで、だからといって直ちに犯人が特定できるとは限らないにもかかわらず、平静を保つことができず、同僚の前で顔色を変えた挙げ句、遂に上司に打ち明けた、ということのように思われる。これが「いい人」でなくて何であろうか?

 では、「犯人」が仮に私の想像通りの「いい人」だったとして、その「いい人」がなぜこんなことをしてしまったのであろうか?それは、彼がPCの画面に向っている時は、非常に小さな世界に閉じこもっているのであって、そのPCが世界に開かれ、万人が自由に見ることのできるものだということに想像が及ばなかったから、ではないかと思う。人間が発明した利器に人間が翻弄されているようで、滑稽であると同時に恐ろしいと思う。私も同様。この文章だって、世界中の誰しもが読める状態になっているわけだから、誰がどこでこれを読んで、何を考えるかということを常に想像しながら書かないと、いったいどんな事件が起こるか分からない。自戒の念を新たにしたことである。

2)政治の世界では、海上保安庁の長官はもとより、国土交通相や首相の責任を問う声さえも出ている。私はこれも恐ろしいと思う。巨大なピラミッドの頂点にいる方々だから、責任を問われるのは仕方がないとしても、辞任要求ともなると行き過ぎだろう。私は、彼らの責任は立場上の形式的なものに止まると思っている。

 県立高校などという所は、政府、国土交通省海上保安庁などに比べれば、正に猫の額にも満たない小さな組織であるが、それでも、一般職員の行動の隅から隅まで責任者である校長の目が行き届いているということはあり得ないし、そんなことがあり得たら、それはぞっとするほど窮屈でぎすぎすした嫌な世界だと思う。

 野党にしてみれば、政権政党をやっつけるいいネタなのかも知れないが、そんなことで大騒ぎしたら、どんどんどんどん世の中が窮屈になるばかりでなく、やがて自分たちの首をも絞めることになるのだということを考えて欲しいものである。実際、官房長官は「二度とこのようなことが起こらないように、対策を講じる必要がある」と繰り返していた。事件・事故が起こるたびに頻繁に耳にする「いつもの言葉」である。こうして、ひたすら「対策」は増えていき、決して減ることはない。いずれ、早晩、人間の社会を円滑に機能させるために「対策」があるのか、「対策」を行うために人間がいるのか分からないような、滑稽で深刻な状況になるだろう。良心や良識に従って生きることへの期待を止めて、全てを制度で管理しようとしても、世の中というものはそれほど単純にはできていない。問題の起こることをある程度覚悟しつつ、人間に期待するしかないのであり、従って、責任追及にも節度が必要なのである。

3)話は「犯人」や「責任」から少しはずれるが、今回の流出については、「よくやった」式の称賛の声が大きかった。それに比例するように、映像を公開したがらない政府への批判の声も強まった。しかし、私にはどうもそれは軽薄な考えのように思われる。

 そもそも、なぜ政府が公開を渋ったかと言えば、裁判の証拠物件であるとか、外交上の配慮であるとか、一度公開すれば、以後どのようなものでも前例に従って公開せざるを得なくなるとかいうことだったと思う。私にはもっともに思われる。

 公開すれば、多くの人が「評論家」となって、それこそネットを通じていろいろなコメントを述べるだろう。それは、裁判の公平性をゆがめることにも、政治的混乱のきっかけにも、外交上の問題にもなり得る。いくら透明性を高めることが大切だとしても、現実には、公開にふさわしくないものもあり得る。

 おそらく、多くの日本人は、今回の事件に関する中国政府の態度にまず大きな不快があり、更に船長を釈放、帰国させてしまった日本政府のやり方に不満がある。だから、「決して日本は悪くない」「悪いのは中国だ」「船長を帰国させたのは失態だ」という意見を正当化する今回の映像は心地よいのであり、それを声高に叫ばせてくれない政府のやり方(その中心が映像の非公開)が許せないのであろう。しかし、それは自分たちの思い描いている通りの(つまりは都合のよい)ことが映像化されていた時だけ得られる快感であり、気持ちがいいから世の中がうまく収まるものでもなく、まして正しいというものでなどないのである。