教員不祥事私見


 教員の不祥事が多く、新聞紙上でもけっこう大きく取り上げられていたりする(私も、今日の『河北新報』、教育長の文教警察委員会における発言の記事を横目に、これを書き始めている)。教育現場に身を置くものとして、お前は一体どう思っているのだ?ということは問われて当然なので、これが「公開」であることにためらいを覚えつつも、大切なことなので、若干の私見を述べておくことにする。

 さて、最近マスコミが不祥事問題を度々取り上げるのは、数だけの問題ではなく、トイレでの盗撮とか、内容が甚だ破廉恥で目に余るからなのだろう。しかし、これは今年に始まった話ではなく、近年、年に何回かは、「綱紀の粛正」とか言って、通知が出たり、校長から訓話のようなものがあったりするような気もする。

 ところが、最近が今までと少し違うのは、不祥事の背後に「ストレス」(県知事)や「多忙化」(教育長)があるのではないかと、必ずしも不祥事を起こした本人に全てを押しつけるわけではないような発言が、県の中枢から出始めたということである。これは一歩前進と評価してよいだろう。

 そもそも日本の社会全体がおかしいという話は、最近あちらこちらで語られていて、ほとんど全ての人の共通認識になっていると言ってよいように思う。だとすれば、その中で教員だけが無風であることなど出来るわけがない。世の中全体がおかしい結果として、同程度に教員もおかしい。ただ、立場上それがいささか他の人より目にも付き、不届きにも見えるだけだということになる。世の中がおかしい以上に、教員がおかしいのなら、特別におかしい人だけをわざわざ採用するはずもないだろうから、なぜそのようなことになるのか、教育現場の何が問題で教員を狂わせるのか、を考える必要があるだろう。

 仮に、後者の場合、すなわち世の中の変質以上に教員が変質しているとした場合、その原因は「ストレス」や「多忙化」なのであろうか?

 私は「多忙化」は原因の一部ではあっても、最重要ではないと思う。人間はひとえに「多忙」と言っても、それがストレスになる「多忙」と、あまりストレスにならない「多忙」がある。教育長が言う通り、教材研究などの「本業」はストレスになりにくく、県への報告を始めとする事務的仕事はストレスになりやすい。かといって、それらがないだけで済むとも思えない。知事の言う「ストレス」はその通りだが、一体どのようなストレスなのかを明らかにしなければ、具体的な解決策にはつながらない。

 私は、宮城県の教員になって22年目を過ごしている。職場環境は、この22年で激変した。あらゆる意味で、今は窮屈である。この窮屈さを不祥事との関係で考えてみた時、私が思い至るのは一般教員の地位の低下、尊厳の喪失、である。県や校長の権限は、法律上ではなく、実質的に信じられないほど強大化した(以前も法律上は大きな権限を持っていたが、実際には現場教職員の意向が尊重されていた。今は法と実際が一致してきたということ)。あまり具体的なことを書くのは遠慮しておくが、「お願いします」という形の「命令」は増え、「ほうれんそう」とか言って管理職への「報告・連絡・相談」が奨励され(義務づけられ?)、教員が自ら判断することが許される範囲が非常に縮小し、県主催の様々な会議や研修会は増えた上に「宿題」が科せられるようになり、しかもその内容に現場管理職のチェックが入るようになり、「綱紀の粛正」「服務規律の徹底」をうるさく言われるようになって、不祥事対策らしき書類や手続きが増えた。ここに一貫しているのは、「あなた達のことは信用していませんよ」「ちょっと緩めればサボりますよね」ということであり、「教育はお上の言う通りやってもらわなければいけませんよ」「あなた自身の教育的信条や判断なんてどうでもいいことですからね」ということである。その上、低学力にしても、いじめや不登校にしても、生徒のトラブルは現場の教員の責任、教員がたるんでいるということになったのでは、教員は職務に「誇り」など持てるわけがない。判断の機会を奪われ、「誇り」を失った人間が破廉恥な行為に走るというのは、いとも自然な流れであろう。現在の状況は、教育に夢と希望を持って教員になった人ほど苦しい状況だと思う。

 ストレスになる「多忙」と、ならない「多忙」の分岐点もここにある。一昔前のように、教員が社会から尊重される立場であり、使命感と自らの教育的信条に基づいて活動をしているのなら、「多忙」は問題とするに値しない。自己を否定され、何の意味があるのか分からないような、若しくは、タテマエ上の意味しか理解できないような仕事を強制され、生徒と直接関わり合う時間がどんどん削られていく時、「多忙」はストレスなのである。しかも、それでいて何か問題が発生した時は教員個人の責任にされたのではたまらない。

「デフレ」に関して、よく「スパイラル」という言葉が使われる通り、よくないことほど悪循環を起こす。不祥事が起こるから締め付ける→締め付けられるから精神を病む→精神を病むから不祥事を起こすという悪循環は間違いなく存在すると思う。責任を負う立場からしてみれば、不祥事が起きた時に放置するわけにはいかない。しかし、一人一人の教員に、どのようにして「誇り」を取り戻させるのか。この観点無くして不祥事の克服はない。

 私自身は、今まで比較的恵まれた環境の中で仕事をしてきたので、以上述べたことは自分自身の実感と言うよりは、直接間接様々な情報に基づく一般論に過ぎない。それでも、私は、不祥事を起こした人を、直ちに責める気にはどうしてもなれないのである。