劉暁波氏のノーベル平和賞



 ノーベル賞の授賞式が行われた。私は、ノーベル賞の権威というものを認めつつ、成り立ちの違う「経済学賞」は格別としても、「平和賞」についてはなかなか評価が難しいと感じている。多分、これは私独自の立場ではなく、多くの人が抱く思いであろう。何しろ「佐藤栄作」が悪すぎたし、昨年の「オバマ大統領」だって明らかに勇み足である。

 今年の「劉暁波」氏については、ずいぶんゴタゴタと政治的なもめ事があったが、これはどう考えるべきだろうか?

 国の政治体制として、専制政治(独裁政治)と民主政治どちらがより一層良いかと、いう議論をすると、私の知る限りで、全ての人が「良い専制政治なら、それが一番良い、ただし、悪い時にはとことん悪い。その点、民主主義は、現在の人間のレベルから言えば、非常に良くなることもない代りに、極端に悪くなることもなく、仮に悪くなってもみんなで選んだ結果だからあきらめ(納得)がつく」というようなことを言う。全くその通りなのである。

 利害が必ずしも一致しない多くの人々の意見を統合することは至難であって、強力な力(権力)がなければ、意思決定そのものがままならない。しかも、構成員全体がよほど賢くならなければ、自分たちの目先の利害を追うばかりで、見通しもなく、外国にも迷惑を掛けては行き詰まるということになりかねない。残念ながら、今の日本はそれに近いかも知れない。その点、優秀なる専制君主が、高い見識に基づいて政治を行えば、構成員が平穏なる生活を享受し、しかもそれを将来にわたって保つことが可能になるだろう。実際、今問題になっている中国は、専制主義と言うに近い民主集中制によって、極貧の状態から「全ての人が食える国」を実現させることに成功したのである。つまり、専制主義と民主主義はどちらが良いともなかなか言うのが難しいのである。ばくち的なのは専制主義、無難なのは民主主義ということになる。もっとも、専制主義においては、ばくちを打つかどうかの判断の余地が国民にないわけだから、各自は運を天に任せるしか無く、そうなると、悪くてもあきらめのつく民主主義の方がいささか安全だ、ということになる。その程度(?)である。

 ところが、日本や、日本と友好的な関係を保っている主に「先進国」と呼ばれるグループでは、「民主主義」が絶対に善であるかのように語られる。仮に民主主義が善だとすれば、それは政治的な結果ではなく、その根底あるはずの「人間はみな平等」という思想によるはずなのだが、実際には、そのような高邁な思想よりも、共産主義(=共産党による専制主義国家)にたいする否定として根付いた考え方のように見える。

 というわけで、私は、ノーベル委員会が劉暁波氏に平和賞を与えたことを、全面的に肯定するわけにはいかない。それを余計なお世話だとして反発する中国の立場は大いに理解できるのである。しかしながら、だからといって、授賞式への本人の出席を認めないのは分かるにしても、他の国にまで欠席するように求めるというのは大人気がない。それが中国の考え方であり、やましいところがないのなら、自分たちの考えを語るだけ語って、もう少し泰然自若としていれば良かったのである。

 一方、ノーベル委員会も問題である。「民主主義」を無条件に善であるとするような態度は説明不足であろう。「人権」は語られるが、それを語るなら、その根底にある「人間の平等」を、自明なものとはせずに、もう少し丁寧に訴えるべきである。(ただし、そうしていたとしても、それを是とするかどうかは思想の違いに基づくのであって、絶対的なものではないかも知れない。)

 中国の現政権は「革命」によって樹立された。革命によって樹立された政権は、革命によってしか交代しないのが道理なのかも知れない。しかし、革命によってなら交代し得る。選挙と革命のどちらが政権選択の手段として優れているのか。それは単に文化の違いという相対的なものなのか、絶対的に優劣を決めることが出来るものなのか。先入観の排除に務めるなら、これまた私には非常に悩ましく難しいのである。