原点は人と人



 一昨日と同じことから書き始めます。

 復旧作業は、驚くべきパワーとスピードで進んでいます。4本のうち2本がダメ、と報告した橋は、なんと今日までに全て通れるようになりました。特に一昨日ダメだったうちの1本は、5mほど落ちていたものです。私は、最短でも1ヶ月と思っていました。通行可能な道路は、ぐんぐん延びています。

 物資の豊かさも、驚くべきものです。申し訳ないことに、私は地震発生以来の2週間、一銭もお金を使わず、食べ過ぎてぶよぶよ太りそうな状況です。水産高校の近所にある中学校へ行けば、1日12時間、自衛隊が風呂に入れるようにしてくれていますし、医師も常駐しています。水産高校にも、日赤や自衛隊の医務班が訪問診療に来てくれます。

 避難所たる水産高校の物資は、ついに飽和状態。今日は、朝来た2台の2tトラックを、「お気持ちだけありがたく頂戴します」と言って、お帰りいただきました。おそらく、これは被災地全ての状況ではないと思います。しかし、交通や情報が不完全な中、市・自衛隊に加えて、多くの民間団体が入り乱れているとなれば、必要な場所に必要な物を届けるという作業は、想像よりもはるかに難しい作業なのだ、と思い知らされます。

 今回の地震で、悪かったことももちろん多数あるのですが、よかったと思えることも同様に多数あります。その代表が、これらのような人間関係の大切さ、快さを再認識できたことです。このブログや、今日初めて見たGoogleのPerson finderなるものへの書き込み、私個人宛のメールも、20年、30年近くにも渡ってほとんど年賀状だけの付き合いを続けてきただけというような思いもかけない人からのものも含めて、本当に多くをいただきました。

 また、こんな場所まで直接訪ねてきて下さる方がいることには更に驚き、感動しています。

 3月17日には、一高の卒業生S君が、なんと仙台から歩いて、安否の確認と差し入れに来てくれました。

 3月20日には、愛知県の私立東海高校教諭・久田光政さんが、2名の教え子とともに、日本海側経由で来てくれました。この方は、かれこれ15年余り前、私が高校生の学校外での自主的活動の支援をしていた頃、先進県である愛知の指導者として、いろいろと教えて頂いていた方です。

 宮城の高校生活動が失速・崩壊してしまった後も、本家の愛知がマンネリの壁と戦いながら、いろいろな成果を上げていることは知っていました。その中には、10年以上にもわたる阪神大震災へのサポート活動があります。また、阪神だけではなく、中越地震枇杷島の大水害への支援活動も行っていました。そして今回、東北沿岸部での大災害に当たり、ルートを確保し、現地で何が必要で、どのような活動が可能かを視察するために、3連休を利用して来てくれたわけです。今更ながらに驚くべき、パワーとフットワークです。

  公的な援助は、確実で大規模なありがたいものです。しかし、このような個人的なつながりによるものは、やはり非常に血の通った温かいものに感じられ、嬉しいものです。

 水産高校で避難生活を送っておられる方々、街で出会った通りすがりの方々とも、ここが2011年の日本であることを忘れるほど自然に会話が出来るのが新鮮です。「この道○○までずっと行けっぺか?」「水産高校辺りの被害はなじょっしゃ?」と言葉を交わし、ひとしきり話が続く、といった具合です。

 実に素朴な、本当は当たり前であるはずの人と人との結び付き。家族の大切さも含めて、それが私達にとって何よりも大切なものであり、幸せもそこにこそあるのだ、とつくづく思います。