震災時、我が家族の記録



 被災地の一つの家族の姿として、地震発生当時の我が家の様子を記録しておくことにする。

 水産高校は、入試に関する作業の都合で、生徒は3校時終了後放課となり、校舎内も立ち入り禁止となって、校舎外で部活をしていた生徒だけが学校にいた。私は職員室にいて、県への実に下らない報告文書作りをしていた。入試関係の会議が開かれていたため、職員室内にはさほど多くの教員がいたわけではない。大きな地震であることはすぐに分かった。一度は恐怖を感じて、机の下に身を潜めたりもしたのだが、揺れに伴って机が動いていってしまうこともあり、持ち前の好奇心が刺激されて、周囲の様子を観察したいという思いもわき起こってきたので、机から出て、机にしがみつきながら「観察」をしていた。ニュージーランドの大地震でビルが倒壊した話は記憶に新しかったし、建物が菱形になるほど揺れていたのに、不思議と校舎が倒壊するという不安は感じなかった。揺れている間中、気になっていたのは、頭上から蛍光灯が落ちて来ないかということだけだった。長い長い地震だった。

 揺れが収まると、廊下に飛び出した。会議室で会議をしていた人々も飛び出してきた。玄関から外に出ると、駐車場がベコベコになっていた。防災広報では、すぐに津波の警告が流れたが、そんなものを待つまでもなく、誰もが津波を心配していた。部活動をしていた生徒を急いで校庭に集めると、付近の住民も続々と集まってきた。防災広報で、津波が来るまで小一時間あることが分かると、みんな落ち着いた。鮎川に3mあまりの津波がやって来たという警報が流れた時、みんなは実習棟と本校舎に分かれ、3階に上ることにした。この時、妻からメールが来た。「わらしこに走って向かってみる」とあった。「わらしこ」とは、私の子どもたちが通う保育園である(この保育園については2009年3月16日の記事参照)。バカなことを、と思ったが、止めようはなかった。

 地震の発生から約1時間後、「来た!」という声がして、よく見ると学校の前の道に、東側から水がジャーッと流れ込んできたが、その後は、今回の被災地の中でも特に被害が大きかった場所と違って、勢いよく波が押し寄せてきたと言うよりは、じわじわと学校の周囲の水位が上がってきたという感じだった。水が来て15分ほどで、水は校舎内に入り始め、やがて1階を50cmほど浸して止まった。第1波とか、第2波というものの違いもよく分からなかった。前庭では、車がダッシュボード付近まで水に漬かっていた。警報音が鳴って、ハザードランプの点滅している車も多かった。

 水産高校の周りが海になってしまったこともあり、避難者に夜を過ごしてもらうための様々な作業もあったりして、あっという間に夜は更けていった。屋上に上ると、石巻市内方面の空が真っ赤になっていた。火事が発生しているのだろう。私は、北上川の東側、湊地区だろうと思った。

 当初、妻子のことはあまり心配していなかった。これは、今回の震災の被害がどれほどであるかが全く分かっていなかったためである。夜中、ラジオをつけっ放しにしていたが、石巻市内に関する情報は非常に少なかった。やがて、これは悪いことなのではないか、と思い始めた。被害がないから何も言わないのではなく、被害が大きく、通信手段も壊滅しているために、伝えられないのではないか、と思った。少し心配になってきた。携帯電話も全く通じない。

 翌日、妻子の安否を確認すべく、引かない水に膝下を濡らしながら、学校のある地域を脱出し、自転車で石巻市内を目指した。まずは保育園に行こうと思った。妻もそこを目指したことが分かっている。開北橋以外の橋は通行不能という噂があったので、遠回りをして開北橋から市内に入ろうとした。開北橋を渡ると、市内は完全に冠水していて入ることが出来ない。仕方がないので、北上川の土手を南下したが、石巻大橋まで行って、そこからは冠水と倒壊家屋のために進めないことが分かり、やむなく、JR石巻線の線路の上を歩いて渡波に戻った。この日見た光景は、予想をはるかに上回るものだった。市内の冠水はひどく、津波によるものと思しき車や建物の残骸の漂着物は、信じられないほど内陸に及んでいた。

二日目の夜、私は猛烈に妻子の身の上が心配になってきた。保育園の子どもたちは、避難所に逃げられなかったとしても、保育園の2階にいそうな気がする。私は、わらしこ保育園の高田新子(新ちゃん)という保母さんを、賢い人物として絶対に信頼しているので、あの人がいる限り大丈夫だ、という思いはあった。園長も、最近少し耳は遠いが、決して頭がぼけたわけではなく、いざとなったら頼りになるだろう。しかし、事態は私の想像をはるかに超えているようだ。何が起こっていてもおかしくない。妻は絶体絶命である。津波が来る直前に、走って保育園に向ったとなれば、湊地区を通らないわけにはいかない。湊地区については、あらゆる情報が最悪の事態を告げていた。電話はまだまったく役に立たない。

 眠られない夜を過ごした。妻が死んで二人の子供が残された場合、妻も子供も死んだ場合、私はどのように感じ、その後の人生をどうやって生きていくのだろうか、ということを繰り返し繰り返し考えた。前夜見た恐ろしい火も、我が家のある日和山で起こった火事によるものだという噂が流れてきた。家も心配だったが、妻子が生きていてくれればそれでいいと思った。

 朝になった。私は自転車で、妻が勤めていた石巻市立女子商業高校を目指した。水産高校からわずか2㎞ほどの場所であるが、倒壊家屋と車が道をふさいでいて、通行困難であること、昨日行った場所の比ではなかった。正に壊滅的な状況だった。1時間もかけて女子商にたどり着いた。長浜海岸から、道路と松並木を隔てただけの場所に立っている女子商は、直撃波を受けたと見えて、水産高校とは比較にならないメチャクチャな状態だった。体育館など、1階部分の壁が全て無くなって、鉄骨の上に屋根が載っているだけになっていた。

 無駄と思いつつ、私が玄関で中に向って「こんにちは〜!」と叫んでいた時、女子商の先生が3名、建物の中からではなく、外からやって来た。うち一人は知っているY先生だった。Y先生は、妻の状況を知っていて、教えてくれた。「S先生(=私の妻)は、みんなと一緒に鹿妻小学校に避難したのですが、保育園に行くと言って飛び出していきました。直後に津波が来たのですが、どこかの民家でかろうじて津波をのがれ、法山寺に泊めてもらったそうです。昨日は、やはり保育園に行くと言って市内を目指したようですが、冠水で入れず、今日もう一度行ってみると言っていました。」私はこの言葉で、妻が生きていることを知った。言いようもなく嬉しかった。

 後で妻に聞いた話によれば、このY先生の説明は概ね正しいが、少しだけ補足が必要である。妻が「新中道」と呼ばれる道を、石巻方面に向って走っていた時、津波がやってくるのが見えた。まずいと思って、近くにあった民家のブロック塀によじ登ったが、間もなく波はその高さに迫ったので、危ないと思い、隣にあった門柱の上に上った。波がその高さを超えるようだと、後は波に呑まれるしかない。道路を挟んで反対側の家のブロック塀が、波の力で倒れるのを見た時は、自分の立つ門柱も同様になり、自分も波にさらわれるのではないかと恐怖を感じたそうである。幸いにして、波は彼女の足の裏数センチの所で止まった。この時、雪が降っていた。寒さに震えていた彼女の目の前に、1台のトラックが波に浮かんで流されてきた。そのトラックは、何かの事情で、たまたま彼女の前で少しの間停滞し、波の勢いが彼女の立つ門柱に直接及ぶのを妨げてくれた。更に、運転手はトラックの屋根に彼女を載せようと努力し、出来ないと悟ると、寒さに震える彼女に、作業用の上着を渡してくれた。この上着にはずいぶん助けられたようで、妻は深く感謝していた。しばらくして第1波が引いた時、更に大きな第2波が来るとまずいと思い、その家に避難させてもらった。彼女がその家を出て法山寺に逃げ込んだのは、一連の津波が全て引いた後の話である。二晩目は、市内に近い消防本部の2階の避難所で過ごした。

 さて、Y先生に礼を言うと、私も市内を目指した。前日、落ちたという噂のあった石巻大橋が渡れることを確認してあったので、石巻大橋に通じている「牧山トンネル」を自転車で抜けた。いつもは自動車専用道路となっているが、車はほとんど走っていない。停電で照明のついていない真っ暗な中を、出口の明るさだけを頼りに、人がぞろぞろぞろぞろ歩いていた。例外なく木の杖を持っている。いかにも被災者の姿だった。 

石巻市街の水は全然少なくなっていなかった。人の流れに沿って、消防本部の方へ歩いていた時、妻の姿を見つけた。抱き合って泣いた。人と会って泣いたのは初めてのような気がする(この時期、被災地では、至る所でこのような抱き合って無事を喜び合う光景が見られた)。

 偶然その時、通りがかりの人にどこから来たのか尋ねると、石巻高校からだと言う。石巻高校は、我が家と同じ山の上にあるので、その人達が来た通り行くと、我が家に辿り着けることが分かった。ついでに、石巻高校には「わらしこ保育園」の園児が避難していなかったか尋ねると、「わらしこ保育園は何とか「い」さんの家にいます」と張り紙がしてあった、と教えてくれた。「なんとか「い」さん」とは「平居さん」、そう、我が家のことに違いない。わらしこ保育園のみんなは、一度石巻高校に行った後で、我が家に避難したのだ!と分かった。

 私達は、その人の話に従い、北上川に沿って下り、立町商店街からアイトピア通りを経て、日和山を目指した。旧市役所前の坂を登り切る直前、向こうから園長と新ちゃんが歩いてくるのが見えた。二人の園児の保護者であるTさん夫妻が来てくれたので、何か食糧が手に入らないか、街へ行ってみようと出てきたのだと言う。また、抱き合って泣いた。自宅に戻ると、子どもたちは皆元気に楽しそうに遊んでいた。私の子どもたちは走って抱きついてきた。地震発生から44時間目にして家族がそろったのである。

 聞けば、地震発生の瞬間、園児達はお昼寝の最中だった。壁が落ち、ピアノも太鼓も本もひっくり返って大変な中、津波を心配した二人が、子どもたちを慌てて車に詰め込み、石巻高校を目指した。保育園の場所からすると、最寄りの避難所は住吉中学校なのであるが、山の上の石巻高校の方がベターだととっさに判断したのだという。しかも、途中停電し、商品が地震で散乱したにもかかわらず、コンビニが店を開けているのを見ると、避難先で食糧に困るのを心配し、パンを瞬時に大量に買ったというから、その機転に驚く。石巻高校は指定避難所ではなかったが、多くの人が避難してきて混乱していた。食糧もほとんど配給されなかった。10名に対し、与えられたのはソーセージ3本とビスケット1枚だった(地震の日の夜のことだから、これは仕方がない。園児達は、夜になってから、他の避難者の目をはばかりながら、避難する時に買ってきたパンを食べたので、空腹につらい思いはしなかったらしい)。まだ2歳の、いつもは臆病で甘えん坊の息子が、この異常な事態の中で、泣くことも親を求めることもなく、まるで動物が危機に際して死んだふりをするように、あらゆる感覚を遮断して、大人しくこんこんと眠り続けたことに、新ちゃんはとても驚いていた。翌日、私の娘が、我が家に行こうと言い出し、鍵も持っていたため、一同我が家に移って、ようやく一息ついたのだという。私達が帰り着いた時までには、我が家にあった道具と食糧を上手く使い、停電、断水の中、感心させられる様々な知恵によって優雅な生活をしていた。

いろいろと問題はあったが、みんなのそれなりの知恵と努力、そして何よりも幸運とによって、我が家は全員無事であった。今その幸せを、本当にありがたいと感じる。