石巻市は、市街地の中心部に山がある。山全体を「鰐山(わにやま)」と言うが、最高地点が景勝地としても有名な「日和山(ひよりやま)」なので、山全体を日和山だと誤解している人や、便宜的にそう呼んでいる人も少なくない。私も「日和山」と呼ぶのがしっくり来る。中世、この地域を治める葛西氏の居城があった場所として、日当たりがよく、地盤が強固な場所として、一昔前までは石巻を代表する高級住宅地であった。住所で言うと、「日和が丘」「泉町」「羽黒町」「山下町」「双葉町」「宜山町(よしやまちょう)」「南光町」という七つの地区から成る。我が家は、その「日和が丘」に建つ。
私は、石巻高校に勤務するようになった平成6年の11月だったかに借家を見つけてこの場所に住み始め、眺望の良さと、自然環境と、買い物、病院といった生活の利便性と、噂通りの地盤強固とに引かれて、平成15年に借家を買い取り、建て直して今日に至っている。地盤強固というのは実感しにくいと思われるかも知れないが、例えば、平成15年の鳴瀬・矢本の大地震の時、石巻は震度5(強か弱か失念)であったにもかかわらず、昭和24年築の陋屋で、フォトスタンドが一つ倒れただけであったことは、噂を信ずるに足る印象的な出来事だった。
土地を買う時、私は、今回の津波で全滅した南浜町や門脇町を我が家から見下ろしながら、こんな所は津波でも来たら大変なことになるだろうに、どうしてこんなに多くの人が家を建てているのだろう、と思っていたし、同様に、水没した水明町や水押などは、北上川の土手が決壊したら大変なことになるのに、どうして人が住むのだろう、と思っていた。そして、いささか嫌味な或いは失礼な物言いに聞こえるかも知れないが、その通りのことが起こってしまった(水明町や水押は、北上川の堤防決壊で水没したわけではないけれど)。
さて、地震から二日目に当たる3月13日、自宅を目指していた私は、津波で惨憺たる光景を呈しているアイトピア通りを、泥に足を取られながら妻とともに歩いて南下し、石巻小学校から旧市役所前の坂道にかかった。その瞬間から、まったく異次元の世界が目の前に広がった。それは、全く時間の止まった世界だった。地震の前といささかも変化していないのである。老朽化が進み危険とされて捨てられた旧市役所は、ひび一つ入らず元の姿で建っていた。私が自宅に至るまでの間で、地震の影響を認めることが出来たのは、石巻経理学校の鉄筋の入っていないブロック塀のブロックが2個落ちていたのと、その斜め向かいにある高さ5mもあろうかという石垣に若干の亀裂が入り、石の破片が少しばかり落ちていたことだけであった。
自宅に着いた。わらしこ保育園が我が家に移っていたことは昨日書いた通りだが、自宅の状況はと言えば、巨大な書架から本が4〜5冊落ちていただけである。保育園の園長や保母さんが片付けたわけでもないらしい。現に割れた食器なんて一つもない。落ちた本だって、並べてある本の上に横に寝かせて突っ込んでおいた本が滑り落ちただけである。本にもCDにも、ストッパーなんてつけていない。改めて鰐山(日和山)はスゴイと驚きを新たにした。庭で楽しそうに遊ぶ園児の向こうで、ウグイスが何事もなかったかのように鳴いていた。眼下には、廃墟と化した南浜町、門脇町が見えている。あまりにも大きなコントラストに、私は何の現実味を感じることも出来なかった。
鰐山には、旧市役所の他、裁判所、法務局、ハローワーク、中央公民館といった重要な行政施設もあり、図書館、総合体育館、一つの小学校、二つの中学校、二つの高校がある。浄水場も配水場もある。もともと市の中心地だったわけだから、インフラは充実しているのである。その上、地震の被害も津波の被害もないとなれば復旧は早い。電気は3月16日、水道・電話は22日に復旧した。しかも、今の土地を買う時、私は既に目を付けていたのだが、我が家の裏の空き地には井戸がある。最初は澄んでいて、炭でろ過して飲めた水も、やがて多少の濁りを含むようになり、後はトイレ用になってしまったが、水道が復旧するまでの間、この井戸にはずいぶん世話になった。
鰐山が危なかったとすれば、それは地震の日の夜、門脇町で猛烈な火災が起こったことによる。出火原因は分からない。私がその夜、水産高校の屋上から見ていた火柱にも近い炎は、この火災によるものであった。
しかし、鰐山の周囲は全滅している。そこからの避難者は鰐山の主に5つの学校に避難している。これで鰐山に火がつくと、もう逃げられる場所がない。幸い、鰐山には消防署もあり、しかも道路は傷んでいない。そこで、我が家のそばに消防車が駆けつけると、そこが石巻の生命線であるかのように我が家の南側斜面に放水、間一髪、我が家を始めとする鰐山南縁の家々への延焼を食い止めたのだという。
さて、以上書いてきたことから、いささか教訓めいたことを述べてまとめとするなら、それは、「人が昔から住み継いできた場所にはそれなりの訳(根拠)がある」ということになるだろう。これは「古典には価値がある」「素晴らしい作品しか古典にはなれない」という論理と同じことだ。この40年か50年、核家族化に伴って人口以上に家の数は増え、宅地を求めて海が埋め立てられ、山が切り崩された。しかし、昔から人が住み継いできた場所があるなら、もう一度そこに目を向けるべきなのではないだろうか。