愛知で考えたこと(2)・・・私学の授業料は高いか?



 愛知のフェスティバルは、そもそも「「教育の公平」と私学助成の拡充を求める私学デー2011」と銘打たれ、主催者は「「私学デー2011」実行委員会」であり、「愛知県高校生フェスティバル実行委員会」は、その4つある構成団体のうちの一つとして名を連ねているに過ぎない。

 5月5日に、私は、とても政治色の強い集会だったと書いたが、それには重要なわけがある。一つは、公立高校の授業料が昨年から無償化されたという問題だ。これによって、公私格差は大きく拡大し、私学の授業料の高さが強調される形になった。もちろんこれは、経営上危機的な問題である。もう一つは、愛知県の政治的な情勢の変化によってか、25年にわたるこのイベントの歴史で初めて、来賓として愛知県知事の出席が実現した、ということだ。

 ところで、集会の中で彼らは、授業料の公私格差を、「教育の公平」を阻害するものとして強く批判するが、その批判は正しいだろうか?

 500万円のセルシオに乗っている人が、100万円のヴィッツに乗っている人を見ながら、同じ5人乗り自動車なのに、400万円も違うのは不公平だ、とは普通は言わない。むしろ、その400万円の違いにこそ価値を見いだしている。私立に通うことが、同様の価値の違いを持つなら、公私格差は必ずしも「不公平」とは言えない。イギリスのパブリックスクールの高額な授業料など、この部類だろう。もっとも、教育というのは、その性質上、貧富によって質が変わってはいけない、否、貧乏人こそ上質な教育を受ける必要があるというなら話は変わってくる。セルシオヴィッツの例は成り立たない。だったら、いっそのこと私立や、学校毎のやり方の違いなど一切無くしてしまえ、という極論も無意味ではない。

 一方、公立に行けないから私立に行く、といった場合はどうなるだろう。この場合、高校進学希望者の全員が進むだけの枠が公立にない、ということなのだろうが、果たして、義務教育ではない高校教育に希望者全員が進学する権利を持つだろうか?ということが問題となる。これは、理想論と現実論で判断の分かれるところだろうが、現在の日本で、高校教育を受けることを純粋に任意のオプションだと言うのには無理がある。また、宮城県を見ても、私立の経営が成り立つようにという配慮から、仙台市内における公立と私立の定員が進学希望者の数になるように、県は公立の枠をあえて押さえている。このようなことは、どこの県にもあるのではないだろうか? つまり、全ての人が公立に入ろうと思えば入れるが、より上質のサービスを求める人は私立へ、とはなっていない。

 愛知私教連の委員長によれば、私学の存在意義とは、「自由に、独自に、多様な教育」を行うことにあるという。以前にも書いたことがある(例えば今年1月22日の記事)が、多様な要素を含む集団は強く、純化されると弱くなるという法則がある。「魅力ある学校作り」などという県のキャッチフレーズとは正反対に、公立高校の管理統制の強さなどはお話にならないほどなのであって、こうなると、世の中が多様で強い集団であるために、私立の存在は世の中全体にとって有益だ、ということにもなる。

このように考えてくる時、授業料に公私格差が存在し、しかもそれが大きくなっていることは問題かもしれない。しかし、私が私学授業料の無償化を是とし、愛知私学の運動に共感するとすれば、以上のような面倒な思考のプロセスの結果というよりは、私が以前から主張する(2010年9月13日や2009年6月15日の記事)、「人は誰のために学ぶのか」という問題意識に基づくだろう。つまり、人は学んだ成果を社会に還元することが必要で、その意味で、学ぶことの受益者は社会全体である、従って、学校の授業料は社会全体で負担すべきだ、ということである。これは、社会全体で子育てを、という民主党子供手当の理論と同様である。もちろん、子育ては大変だから社会全体でサポートしましょうというのではなく、子供は社会全体の財産だから、その養育を社会全体でサポートするのである。この論理によれば、サービスの質に関係なく、むしろサービスの質の高い学校こそ、社会に貢献する人材を輩出するわけだから授業料は社会が負担すべきだ、ということになるだろう。そうなのである。

 さて、今年の「私学デー」集会には、県知事のみならず、多くの県議会議員も出席していた。国の政策としてなり、県の施策としてなり、私学の授業料無償化は決して夢ではないような気がしてきた。

 しかし、それが実現した時、数々の大きな成果を生み出してきた愛知の偉大なる私学運動はどうなるだろうか?私学助成の大幅アップ→授業料の無償化という、経済上切実で分かりやすく、イデオロギー的に無色透明で、全ての学校に共通する要求が根底にあったからこそ、その上に巨大な教育運動を組み上げることが出来たのではなかったか?いくら大きく、大切な要求が実現しても、それによって教育運動が求心力を失って崩壊したのでは元も子もない。それでも、「あの愛知」である。その時は、思ってもみなかったやり方で、私(達)により一層大きな刺激と驚きとトキメキを与えてくれるようにも思う。余計な心配をするよりも、むしろそれを楽しみにすべき・・・なのかな?