ハイドン/バーンスタインの『天地創造』



 バッハのカンタータを聴き終えたらやろう、と思っていたことがある。ハイドンを集中的に聴く、ということである。

 少なくとも高校時代から、音楽には膨大な時間を費やしてきた。あまりにもいろいろなことに手を出すので、自分の「趣味」が何か、というのはよく分からないのだが、費やした時間から言えば、音楽は突出しているような気がする。にもかかわらず、まだ聴いたことのない有名な作曲家、有名な作品は限りがないのだから、世界の広さ、人生の短さには呆然とするしかない。

 ハイドンは、昔から好きだった。ネアカの音楽であって、安心して、構成明快で自然な音の流れに身を任せることが出来る。しかし、ふと立ち止まって意識してみると、自分の知っているハイドンの音楽など、20曲ほどの交響曲を始めとして、トランペットやチェロのための協奏曲、数曲の弦楽四重奏曲、ミサ曲、オラトリオなど、1500余りにもなるという彼の作品全体の5%にも満たない。

 何しろ「交響曲の父」である。まずは、107曲の交響曲を聴き通すことにした。買ってきたのは、アダム・フィッシャー指揮、オーストリアハンガリーハイドン管弦楽団による33枚組のCD(1枚当たり200円!! Brilliant99925/1~33)。オーケストラにハイドンの名を冠していることに加えて、録音した場所が、アイゼンシュタットのエステルハージ家の宮殿の、ハイドンがここで実質28年間にわたって楽長をしていたために、「ハイドンザール」と呼ばれているホールであるとなれば、ハイドンに対する思い入れの並々でないことが感じられたからである。中野博詞氏の好著『ハイドン復活』(春秋社)を解説書にしながら、とりあえず約1ヶ月半かけて全てを聴いた。すると、確かに一時期、それなりに深刻な作風を持つ時期もあったし、驚異的な量の仕事をこなしながら常に新しい工夫を試みる、勤勉この上ないハイドンの姿も見えてきたが、やはり、この人の魅力は「素朴な明るさ」だと思う。

 100を超える交響曲を聴き終える頃になって、「ハイドンは結局『天地創造』に行き着くぞ」という思いが、どんどん強くなってきた。『天地創造』とは、もちろん、ハイドン晩年のオラトリオ『天地創造』である。

 話はいささかずれていくが、この曲については、かなり昔から、バーンスタインが1986年にミュンヘンバイエルン放送交響楽団・合唱団とライブ録音したCD(POCG-2401/2)を甚だ気に入って愛聴している。今回、上のような思いから、家人が寝た後、スコアを手に、ヘッドフォン(スピーカーを通すより、細かい音の襞まで良く聞こえる)で、我が家にある数枚の『天地創造』を聴いたが、やはりどうしてもバーンスタインのものが圧倒的によい。

 バーンスタインという人は、私が最も好きな音楽家だ。この人が指揮台に立つと、オーケストラは本当に生き生きとよく鳴り響く。バーンスタインの能力なのか人間性なのか、この人ほど音楽の喜びを表現できる人はいない(奇しくも彼には『音楽の喜び』という著書がある)。彼は、1970年以降、ウィーンフィルと親密な関係にあり、ベートーベン、ブラームスシューマン交響曲全集を始め、マーラーモーツァルトなどの録音をたくさん残した。オーケストラの最高峰であり、楽員による自主運営を方針とするウィーンフィルが、好んでバーンスタインを招き、多くの録音(ライブ)を行った重要な理由の一つが、単純に「バーンスタインと音楽するのは楽しい!」ということであったと私は思っている。

 『天地創造』は、バーンスタインの数ある名演の中で、さほど高い評価を得ているものではないような気がするが、それは、オラトリオなどというジャンルが、特に日本人には得手でないことと、バーンスタインと言えばマーラーという一種の決めつけがあり、またハイドンという作曲家が多少軽く見られているからに過ぎないだろう。彼の『天地創造』は、ハイドンの明るい人間性や声楽作品への熟達と、神の創造の業を賛美するという内容と、音楽の楽しさ・喜びというものを最大限に表現できるバーンスタインという人物と、これらの要素がぴったりと理想的にかみ合って、これ以上ない名演になっている。映像なしで音楽だけ聴いていても、演奏者達が楽しくて楽しくて仕方がなく、夢中になって音楽に没頭している様子が手に取るように伝わってくる。 

ハイドンは結局『天地創造』に行き着くぞ」などと偉そうに書いてはみたものの、私のハイドンシリーズはまだ始まったばかり。もうしばらくは、ハイドンの足跡をたどってみようと思っている。