バーンスタイン『不安の時代』



 年度が変わった所で、NHK・Eテレの日曜夜の音楽番組が、「親しみやすさ」という軽薄主義からわずか1年で撤退し(を余儀なくされ?)、じっくりと名曲・名演を聴かせる番組に変わったのは、誠に喜ばしいことである。昨日はその第二夜で、1月のN響定期演奏会の録画から、バーンスタイン交響曲第2番『不安の時代』他が放映された。

 バーンスタインについては、かつてハイドン天地創造』との関係で少し書いたことがある(2011年5月20日)。私が最も好きな指揮者の一人であるが、指揮者という枠をはめるわけにはいかない。20世紀後半を代表する作曲家でもあり(←これは異論あるかも)、優秀なピアニストで、更にレクチャーが上手だった。最も才能に恵まれた音楽家であり、そこにアメリカ的な陽気さと、ユダヤ人としてのある種の屈折が、正に絶妙なバランスで封じ込められていた。能力というのは偉大だ、人間は生涯の間にこれほど多くの仕事をすることが可能なのか、という羨望と感動がわき起こってくるのを止めることが出来ない。

 バーンスタインには3曲の交響曲がある。交響曲とは言っても、どれもベートーベンの時代のそれとは全く異なり、規模の大きな管弦楽曲という程度の意味である。第2番はピアノソロの活躍する実質的には協奏曲で、彼の交響曲の中では最も聴きやすい。昔、テレビでその演奏シーン(全曲ではなく「仮面舞踏会」を中心とする、第2部の一部だったと記憶する)を見て面白いと思い、以来、バーンスタイン自身の指揮、ルーカス・フォスのピアノ、イスラエルフィルという盤を愛聴してきた。昨日のテレビで、初めて、その全曲の演奏シーンを見ることが出来た。多様な作曲様式がごちゃごちゃに用いられている上、ピアノ独奏も、大きな管弦楽の動きもとても面白い。演奏の質としても高かったのではあるまいか(指揮:アクセルロッド、ピアノ:グッドイヤー)。

 改めて、アメリカを感じた。「アメリカ的って何?」と尋ねられれば、答えることは非常に難しいのだけれど、バーバーのバイオリン協奏曲を聴く時と同じような、どうしてもそれを「アメリカ的」としか表現できないような、ある種の自由さと無機質さと情緒とがあるのである。

 今すこし不用意に書いた「無機質さ」は、バーンスタインアメリカ人であることから来るだけではなく、この交響曲の成り立ちとも関係するかも知れない。

 この作品は、W・H・オーデンというイギリス生まれのアメリカ人が1947年に発表した長編詩「不安の時代」(1948年のピューリッツァー賞受賞)に対するバーンスタインの感動を基に作られている。オーデンは、アメリカが第2次世界大戦での勝利に酔っていた時代に、その50年後の社会を予感するような、疎外と孤独をテーマとして作品を書いた。オーデンもオーデンなら、バーンスタインバーンスタインである。時代の中で自己を見失わず、冷静に、若しくは冷めた目で世界を見ていた、ということなのだろう。

 私が不思議に思うのは、オーデンの詩が発表されてから間もなく、バーンスタインはこの詩を読んで作曲に取りかかり、詩人はアメリカにいて、1973年まで生きたのに、バーンスタインとオーデンの直接の関わりも、オーデンのこの曲に対する感想も見つけることが出来ないという点だ。詩からインスピレーションを得たとは言っても、最終的には自分の音楽でしかなかったということなのか、二人の間に何かしらの葛藤があって、互いに無視したということなのか。場合によっては、音楽以上のドラマがありそうである。