ヨルダン川西岸地区



 昨日の記事で、私はイスラエルキブツの図書室で見つけた一冊の本で、「パレスチナ問題」と出会った、と書いた。実は少し正しくない。思い出も含めて、何かのために記録を書いておこう(以下はあくまでも1984年の事情)。

 この時の旅行で、イスラエルに入る前、私はトルコからシリアを南下し、ヨルダンを経てイスラエルに入った。シリアからヨルダンへと向う国道沿いに、広大で悲惨な難民キャンプがあるのを見て、それがパレスチナからの難民のものであることは知っていた。ヨルダンは当時「イスラエル」という国の存在を認めていなかった。ただし、1947年の国連によるパレスチナ分割案をある程度尊重し、ヨルダン川からエルサレムまでの一帯を、自国の領土と認めて、「ウェストバンク(西岸地区)」と称し、特別の入域許可証を持つ者だけは、実質的な国境であったヨルダン川=アレンビーブリッジを渡ることを認めていたのである。

 私も、アンマンにある内務省で手続きをして、ウェストバンクへの入域許可証を取得した(印紙代約65円)。今もその許可証は保存してあるが、私の名前以外すべてアラビア語で書かれているため、読むことが出来ない。ただ、それを取得する時の条件が「エルサレムから西へは行かない」「2週間以内に戻ってくる」だったように記憶する。

 アレンビーブリッジまでは、国営旅行社JETT(Jordanian express transportation & tourism)のマイクロバス以外では行くことが出来ない。距離(100km未満)の割に高価であった(1600円くらい)。イミグレーションでは、パスポートと許可証のチェックを受ける。パスポートに出国のスタンプは押されない。あくまでもヨルダンのウェストバンクに2週間以内の予定で行くだけなのだ。

 イスラエル、ヨルダン双方の兵士が機関銃を構えて向かい合うアレンビーブリッジをバスで渡ると、間もなくイスラエルの巨大なイミグレーションに着く。「ヨルダンに戻るのか?」と尋ねられ、「戻らない」と答え、「パスポートにスタンプを押してもいいよ」と言うと、ポンと入国のスタンプを押してくれる。これで、もういかなるアラブ諸国にも入国できない。イミグレーションを出ると、そこはヨルダンの「ウェストバンク」であるが、実際にはヨルダン政府は何の権限も持っていない。

 時間は前後するが、アンマンのエジプト大使館に、エジプトビザをもらいに行ったところ、多くの人々でごった返していた。1979年にエジプトがアラブ諸国の中で唯一イスラエルを承認し、国交を持つようになると、「アラブの裏切り者」として、全てのアラブ諸国がエジプトと断交、その後多少寛容なヨルダンがエジプトとの国交を回復させた。だから、アラブ諸国の中で唯一エジプト大使館があるのがヨルダンだった。そのため、中東でエジプトビザを求める人々は、全てアンマンのエジプト大使館に行くということになってしまったのだ。アンマンのエジプト大使館が、ひときわ混雑しているこのような事情を、通り一遍ながら、私は当時既に知っていた。

 このように書いてくると、キブツ以前に、私が「パレスチナ問題」と向き合う材料などいくらでもあったことが分かる。これら全てが、「パレスチナ問題」であると言ってよい。にもかかわらず、私はその時、それらの持つ意味を知り、真面目に考えようとはせず、面倒くさいとか、二つの国が戦争してるんだ、という程度のことしか思っていなかったのである。このことは、私(=おそらく人間)にとって、見えているということが直ちにその意味を考えることには結び付かないことを意味する。何かしらの問題意識を持って見なければ、その現象の意味は決して見えてこないものなのだ。当時の自分の浅はかさに赤面すると共に、そんな人間の性質をも思う。