沼田鈴子さん、または、体験を受け継ぐことの難しさ



 今日の『河北新報』を開いたら、沼田鈴子さんの訃報が目に飛び込んできた。87歳、とある。知る人ぞ知る広島の語り部である。私も、かつて宮城県で盛んに行われていた広島への修学旅行の震源地とも言うべき高校に勤務していた都合で、二度ばかりお会いして、その体験をお聞きしたことがある。

 新聞記事が、その経歴を実に上手くまとめているので、その一部をそっくりそのままお借りすることにする。「爆心地から1.3キロの広島市内の勤務先で被爆し、建物の下敷きになり左脚を切断。生きる希望を失っていたが、被爆したアオギリが青い芽を出しているのを見て希望を取り戻し、平和記念公園に移植されたアオギリの下で、修学旅行生らに被爆体験を語り続けた。」

 私が生徒と一緒に彼女の話を聞いたのも、このアオギリの下だ。初めて実際にお会いする前に、沼田さんの講演記録を読んだことがあり、話の内容に大差はなかったが、体験した本人が目の前で語るというのは、まったく次元の違う「強さ」があるのだな、と感心したことを鮮明に覚えている。

 震災以来、高田松原でたった一本残った松の話とか、津波に洗われたどこそこの桜が咲いたとか、植物の生命力に関するエピソードをたくさん見聞きしたような気がする。そんな話は、今回の震災が初めてではないということだ。

 震災から3ヶ月目に、我が家の下に広がる門脇・南浜町には雑草すら生えてこない、と書いた。それから1ヶ月。今では雑草の鮮やかな緑が目に付くようになった。私のような被災程度の低い者には、さほど感激があるわけではないが、見る人が見れば、いかにも命と希望のシンボルとして大きな感激を生むのだろう。

 当時の沼田さんの、アオギリに対する思いも、今の私には想像の手に余る。私は確かに、彼女の言葉に心動かされたのだけれども、アオギリに対する思いと同様、多分それは理解したつもりになっているだけなのだと思う。体験を伝えることは難しい。彼女の人生は、それに挑戦し続けた人生であった。私達も、受け継ぐことに挑み続ける必要はあるだろう。合掌