運も実力のうち



 「運も実力のうち」という言葉がある。スポーツの試合か何かで、非常に運がいいとしか思えない勝ち方をした時に使う言葉のように思う。「運がよかっただけじゃないか」とヤジられた時に、この言葉を持ち出す。すると、勝った時とは言え、いささか負け惜しみ的なニュアンスを帯びてくるように思う。しかし、この言葉は本当にそのような意味なのだろうか?

 先日、1年生の「国語総合」という授業で、原田宗典の『一瞬を生きる』という小説を取り上げた。

 「一流のカメラマンになることを夢みる「彼」は、東京広尾にある貸しスタジオでアシスタントをしていた。「虫けら」同然と言われるこの苛酷な職業をあえて選んだのは、いろいろなカメラマンの仕事ぶりが見られるからである。そのスタジオに、ある日、伝説の老カメラマンがやって来た。大喜びでアシスタントとなることを申し出た「彼」は、老カメラマンとの不思議な一週間を過ごすことになる・・・。」

 さて、「彼」が老カメラマンのアシスタントに立候補したのは、一流の技を間近に見て勉強できるからであり、老カメラマンに仕事ぶりが評価されたり、気に入られたりすれば、彼の専属アシスタントになれるとか、誰か(他の優秀なカメラマンや出版社など)に紹介してもらえるなどして、道が開けるかも知れないからである。

 貸しスタジオのアシスタントという職業は、「彼」が自ら選んだとは言え、数ある貸しスタジオの中で、この広尾の貸しスタジオに就職が決まったことには、偶然の要素もあっただろう。そこに、20年にもわたって行方をくらましていた老カメラマンが現れたというのも偶然と言ってよいだろう。つまり、今このスタジオで「彼」が「老カメラマン」と出会ったのは、偶然、言い換えれば「運」なのである。

 だが、老カメラマンと出会えて運がよかったと喜ぶのはまだ早い。「彼」は、それだけでは、老カメラマンから技を学ぶという目的も、気に入られて道が開けるという目的も全然果たしていないからだ。「彼」が一週間の間に、必ずしも「彼」に配慮して行動してくれるわけではない老カメラマンから、どれだけのことを学べるか、どのようにして老カメラマンの評価を受けるかは、「彼」自身にかかっている。それが「彼」の実力なのである。

 人間生きていれば、誰でも「運」によっていろいろな人や出来事と巡り会う。しかし、それらの価値に気付かず、それをチャンスとして生かすことが出来なければ、それらは何の価値も持たない。実際、「彼」と同じ貸しスタジオに勤める「先輩たち」は、老カメラマンがスタジオを予約しても、その人物が何者であるか知らず、みすみす老カメラマンから学ぶチャンスを失っている。「先輩たち」にとって、老カメラマンはただの人である。

 それぞれの出会いの価値を見抜き、それらを生かせるかどうかは、その人の実力だ。「運も実力のうち」とは、「運を生かすのも殺すのも実力だ」という意味である。

 授業でこんなことを話した。