北上川の退屈・・・体と心



 人間の体と心がどのように関係するか、それらはどの程度独立していて、どの程度一体なのか、という議論は珍しくも何ともない。文明論においては、現代という時代が、過去に比べると体と心を分離しがちであることを批判する。

 さて、夏休みに入り、学期の途中に比べると少し(ほんの少し)時間に余裕があるので、よく走りに行く。たいていは、私の大好きな北上川の土手である。

 やはり美しい。実に美しい。不思議なことに、河口よりも川幅が広く、川の方を見ながら走っていると、「森と湖の国」にいるようだ。佳景山の駅まで、往復で10Km弱。ほどよい汗がかける。

 ところが、最近、なんとも体が重い。体重の問題ではない。暑さの問題でも、体調の問題でもないらしい。では何なのか?心では北上川の悠然たる風景を喜びながら、どうやら、まったく起伏のない平坦なコースに、体はすっかり退屈し、うんざりしているのではないか、と思い始めた。つまり、心とは全く別に、体がこのコースを拒否しているのである。脳とは別に、体が感じ、体が考えるということがあるのかもしれない。

 日頃、生徒の姿を見ながら、座学は全くだめでも、実習で高い能力を示すということがあるのは知っていた。これも、心(脳)ではなく体で考えている例なのではないか?脳の働きばかりが重要視される中で、考えるというのは、当然「脳」が行うものだ、だから脳を使えない人間は考えられない人間であって、馬鹿だ、という考え方があまりにも幅をきかせすぎていないだろうか? 「学」のない職人が、時として非常に深い知恵を持ち、人間としても立派であるのは、体を使ってではあるが、深く考えているからではないのだろうか?

 なかなか前に進まない体を持て余しながら、そんなことへと、思いは広がっていくのであった。