5ヶ月目の風景



 メチャクチャに暑い。そして、夏休みだというのに、メチャクチャに忙しい。いや、「夏休みだから」と言うべきかも知れない。仕事が忙しいわけでは、必ずしもないのである。いつになく人の出入りは激しいし(=これは歓迎すべき優先事項)、日頃なかなか出来ないので、夏休みに入ったらやろうと思っていた課題学習(?!)にも膨大なノルマがある。そうしているうちに子供が熱を出したり水疱瘡になったり・・・暑いと言っている余裕も、このブログを更新する余裕もなく、既に8月10日が過ぎ、短い夏休みの終わりが見えてきてしまった(涙)。

 さて、震災から5ヶ月である。世間で騒ぐから、あえて知らん顔をしたくもなったが、一応、身の回りの変化を書き留めておこうと思う。

 我が家の南側、南浜町・門脇町は、全壊した家の取り壊しも進んで、ますますすっきりとした「広場」になってきた。驚いたことに、門脇小学校前の交差点には街灯がつき、東端の方にわずかに生き残った工場に、強烈な水銀灯がつくようになった。従って、我が家の南側の闇は、僅かではあるが確実に色あせてきた。夜になると、漁火が美しい。まさか今年、イカ釣り船の漁火を見ることが出来るとは思わなかった。例年と比べて、船の数が少ないような気もしない。

 その「広場」で変わらないのは冠水だ。満潮時になると、場所によっては車が通れないほど水が上がってくる(流れ込んでくるのではない。下から上がってくるのである)。人の住める家のある場所が優先で、ここのように誰も住んでいない場所は、対策が後回しになるのだろう。やむを得ないことだと思う。

 「広場」の西端には日本製紙石巻工場がある。出荷用の貨物ヤードを始めとして、大きな被害があったが、一週間ほど前に、夜、照明がつくようになったと思ったら、昨日は、煙突から蒸気が出ていて驚いた。早速、今日の『石巻かほく』第1面に、ボイラーに火が入った旨の記事が出ていた。操業の再開は来月だそうである。何とも嬉しいことのはずだが、操業が始まれば「ゴーッ」という持続的な音がまた聞こえるようになるのだろう。飛行場などに比べれば他愛のないレベルではあるが、特に夜の静寂が失われるのは哀しいことである。

 水産高校が渡波に戻ることになったのはよいが、何時になるかの見通しは全く立たない。相変わらず石巻北高のプレハブ暮らしである。電力事情が逼迫しているとは言うが、そんなことに気を遣っているわけにはいかない。特に2階は蓋付きフライパンの中にいるようなもので、エアコンなしでは生きていられない。私のように、反文明的な人間が言うのだから、大げさでも何ともない。事実である。そういえば、先日保護者面談で来校したある保護者が、最近仮設住宅に引っ越したが、暑い日はエアコンを付けても間に合わない、とこぼしておられた。本当かも知れない。

 体育館の避難所もなくならない。石巻仮設住宅の建設が、他に比べると遅れているので、9月にならないと入れない人もいるそうだ。気の毒ではあるが、復旧への作業が遅いので、市役所の入り口で市長に罵声を浴びせる人もいるとか聞くと、なんだか暗い気持ちになる。市長なんて、本当に涙ぐましいほど頑張ってきたと思う。思うに、平成の大合併とやらが、このような大規模災害の時には非常にマイナスとなる。市の土地はとてつもなく広くなったのに、市長が一人であることは変わらない。復興計画を立てるにしても、旧市町ごとにバラバラというわけにはいかないから、結局、限られた人たちが、もともと一体感などなかった全ての地域のことを考えながら動かなければならなくなる。石巻が広大になっただけに、動きが重くなるのも仕方がないと思う。

 人が来るたびに、私が3〜4月に撮った写真を見ながら、あれこれと説明をする。写真を見ながら最も驚いているのは、むしろ私かも知れない。街の中があまりにもきれいで、震災の跡を留めておらず、震災直後の様子を思い出すのが困難なのである。新聞を見ていると、元々住んでいた土地に戻りたい、以前と同じ仕事がしたいという欲求は、ますます強まっているように思われる。記憶が「風化」するのは、当初思っていた以上に簡単なことであるらしい。そこには、人間の性質だけではなく、日一日と急激に変化していく被災地の風景があるのだ、と思う。