昆布漁の思い出



 「夏休み来客シリーズ」の最後に、この4日間、北海道からNさんが来ていた。10年以上前、北海道は大雪山・旭岳裏のキャンプサイトで隣同士にテントを張ったことがある、ただそれだけの関係だが、来石は4年前に続き2回目。人間関係の不思議というものである。それはともかく、便乗的にいくつかのことを書いておこうと思う。

 お土産として、Nさんの故郷・釧路町釧路市とは違う)で採れた昆布を大量に(我が家の30年分くらい?!)いただいた。その匂いをかいだ瞬間、「郷愁」とも「懐旧」ともつかない、複雑な懐かしさがこみ上げてきた。巻いてある紙を少しはがして、中を見るなり、私は「これは4等だね。ダシを取るにも、煮物にするにも一番手頃だ。こっちは等外だ。」とつぶやいた。昆布に対する愛着は並々ならぬものがある。

 今からもう30年近く前の、1983年夏、大学3年目の2年生だった私は、北海道えりも町で、1ヶ月半ほど昆布取りのバイトをしていたことがある。前年の夏に、中国で偶然知り合った日本人・Tさんから、大学時代の思い出として、そんなバイトの話を聞いていた。自分が留年して、自由な時間をたくさん手に入れた時に、ふとその話を思い出してやってみたくなったのである。当時、仙台にあった「学生相談所」という所には、「えりも町農協」(漁協ではない。なぜかは知らない)から求人が来ていた。私はためらわずに申し込んだ。

 7月17日に苫小牧行きのフェリーに乗り、国鉄日高本線国鉄バスと乗り継いで、18日夕方、えりも町に着くと、私が世話になる親方・Kさんが迎えに来てくれていた。翌日(実際の漁期は翌々日の20日から)から8月31日まで1ヶ月半近くの間、私はKさん宅に住み込みで昆布漁の手伝いに従事した。得難い体験だったと思う。

 漁の手伝いとは言っても、漁業権の関係で沖で実際に昆布を採れるのは各家に1名なので、漁は親方の仕事。私を含む他の人たちは、浜で親方が帰ってくるのを待ち、帰ってくると急いで昆布を下ろし、親方を沖に送り出して、次に帰ってくるまでの間に昆布を「浜(小石を敷き詰めた昆布を干すための場所をこう呼ぶ)」に干すというのが仕事だ。一連の作業が終わると、家で食べる魚を獲りに、Kさんと沖に網を揚げに行く。アブラコ、アメマス、キュウリ魚などが連日沢山獲れた。えりもで、私は初めて魚を美味いと思ったような気がする。それが終わると、昆布に小石が貼り付かないように、生乾きの状態で、一度10センチほど昆布を引いてずらし、完全に乾くと何本かずつ頭(かしら)をまとめて縛り、小屋に入れる。

 昆布は一日で干し上がらないと品質が低下して商品価値が落ちるので、本当に天気のよい日しか漁をしない(集落の役員が早朝に判断し、旗を出して漁の有無を知らせる)。漁のない日は、小屋で昆布を規格の長さに切りそろえ、等級を判別し、出荷用の梱包などをしていた。他の家に来ていたアルバイト学生が、昆布採りの他に、家事や、果ては子守までやらされていたのに対し、私は「兄ちゃんは昆布採っさ来たんだから、昆布のこどだけやればいいがら・・・」と言われ、雑事はなかった。暇な時間は、防波堤の上でアイスクリームを食べながら海を眺めたり、友人に手紙を書いて、自転車でえりも本町まで出しに行ったり、本を読んだりしていた。

 1983年というのは、たまたま昆布漁の当たり年だった。連日好天に恵まれ、私の滞在中に20日も漁が出来たのである。もともと、私の契約は8月20日までだったが、あまりにも漁が順調で、私も都合が付いたので、延長して月末までいることになったほどである。

 Kさんの家には奥さん、高校3年の娘さん、Kさんのお母さん(おばあさん)の3人が住んでいた。Kさんは尊敬に値する人物だった。温厚・寛容で、学校時代は「綴り方(作文)」が得意だったと言っていた。頭のいい人なのだろうと思う場面が多かった。家が貧乏で、父親が早く他界したために、上の学校に進むことも出来ず、中学校を出た後、生活のために夏は昆布採り、冬は土方を続けてきたと言う。奥さんもいい人だが、お世辞にもきれいとは言いかねる。牛のような人だと思った。日高の山間で生まれ育ち、貧乏で苦労を重ねてきたらしかった。幼い頃から、夜遅くまで働いていたらしく、小学校に入った頃のこととして、夜の10時、11時まで仕事をしていると親がほめてくれた、という話を、本当に嬉しそうな表情で繰り返ししていた。ただそれだけを喜び、或いは心の支えとして生きているかのようだった。しかし、Kさんはそれを聞くたびに、「あずましくねえ(落ち着かない)」と言って怒った。ひどく不釣り合いな夫婦のように見えたが、どちらの話を聞いていても、胸が締め付けられるような「切なさ」を感じることだけは共通していた。奥さんは、それから7〜8年経った頃、自分で操作していた作業用の機械に轢かれて亡くなった。人が休んでいる時にも休んでいることが出来ず、一人働いていて事故を起こしたのではないか、と想像された。奥さんも気の毒だったが、おばあさんが亡くなり、娘も家を出た後、奥さんを亡くして一人になったKさんを思うと、どうしようもなく哀しかった。

 私はKさんを尊敬していたし、Kさんは「何人も内地からアルバイトの学生来たけど、兄ちゃんは別格だ」と言って可愛がってくれた。もちろん、その後も年賀状は欠かさず出していたし、この間に2度ばかりお邪魔もした。ところが、今年は、いつもなら1月1日に届いていたKさんからの年賀状が来ない。もう70歳代の半ばにもなっているので、心配である。電話をしようかするまいか迷いながら、なんとなく日ばかりが過ぎた。来年の正月に年賀状が来なかったら電話をしてみよう、と思っているところである。

 お土産の昆布の匂いをかいだだけで、こんなことが一気に頭の中を駆けめぐる。