自己責任で住む・・・震災後半年の思い(2)



 昨日に続き、震災後半年を経て、心の中でわだかまっている「なんだか変だぞ」ということについて書いておこう。

 9月11日付『石巻かほく』によると、石巻市ではまだ1500人が避難所で暮らしている。9月1日現在で、仮設住宅は完成率83.8%、入居率74%だそうである。完成した仮設住宅になぜ人が住まないかというと、学校、職場、商店等に遠いからというのが主な理由らしい。石巻は作業が遅いという不満もよく耳にする。

 確かに、被災者としてみれば、なかなか思い通りの生活に戻れず、ストレスのたまる毎日なのだろうと思う。しかし、何しろ災害の規模が規模である。何もかも一度に片付けることは出来ないし、仮設住宅を建設できる用地にしても、使える場所は限られているのだから、みんなの要望に完全に応えることなど出来るわけがない。この非常に厳しい状況下で、たった半年で市はよくこれだけのことをやった、と私などは感心している。しかし、当事者にはそうはいかないのだろう。

 ここでふと考える。果たして、被災者個人の生活に市や県は、どこまで責任を持つ必要があるのだろうか?

 日本国憲法第22条には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とある。これは経済的自由の一部を構成する。「公共の福祉に反しない限り」と留保は付いているものの、基本的に人は居住地を自由に決定する権利を持つのである。「権利」を行使する際には必ず「責任」が付随する。人々は、いろいろな選択肢の中から、メリットとデメリットを比較考量して、自分の居住地を決定しているが、メリットだけを得て、デメリットが生じた時には誰かに責任を押しつけるというのはナシだ。

 私達は、いろいろな目的があって、日頃から高い(?)税金を払って政府なり、地方自治体なりを支えている。その目的の中に、「緊急時の援助」が含まれるのは見解の一致するところであろう。しかし、それはどこまでを含むのか?私は、災害発生直後の最低限の期間、最低限の内容だろうと思っている。

 そのように限定しないと、人間は自分が住み働く場所の決定にも真剣にならないし、災害時には再起することに本気になれない。そして、自力で立ち上がろうとしなければ、本当の復旧は実現しないのではないだろうか。

 1993年に奥尻島青苗は津波によって壊滅した。それから20年近くが経ち、60%の住民が、元の場所に家を建てたそうである。私が見聞きしていても、私のような根無し草には理解できないことなのだが、「元の場所」に対する人間の執着心というのは信じられないほど強い。

 石巻、いや今回の被災地全体でも、自然な成り行きに任せれば、多くの人が結局、元の土地に戻るに違いない。自由に戻ってかまわないと思う。ただし、公が責任を持つのは、特に自然災害の場合、何かあった時の直後だけだ。そのことをはっきりさせておけばいい。なまじ、人々が非常時に公の責任を大きく捉え、十二分の援助を求めれば、憲法の規定を逸脱するほどに、居住地の決定についての公の介入を許すことになってしまう。住民同士や、親族間の助け合いの関係を損ない、結び付きを希薄にすることにもなってしまうだろう。それは、長い目で見れば、人々にとっても決して幸せなことではない。

 都市計画を否定する気はない。しかし、それは骨格に止めるべきであって、人が住む場所について細かな指示を出し、禁止事項を増やすのには反対だ。人は、自己責任で、住みたいと思った場所に住めばよいのである。仮設住宅の建設にしても、市はやって当然、条件の良い場所に速やかに建てられないのはケシカラン、とはどうしても思えない。