大須中学校または冠水の話



 私の公式名刺には、所属部署として「企画情報部」と書いてある。「一体これは何ですか?」とよく聞かれる。これは、もともと「企画部」と「情報部」に分かれており、前者は中学生への入学勧誘を中心とする情報宣伝活動、後者は校内の情報処理を担当する部署であった。両者にあまり深い関連はないが、どちらも半端な組織なので、合体させてそれなりの人員を配置し、いかにもまとまった組織であるかのように取り繕ったもののようだ。私は文明音痴なので、後者には興味も能力もないが、中学生相手の情宣ならばと、頼んでまぜてもらっている。

 さて、期末考査で少し時間に余裕のあった今日は、大須中学校に「宣伝活動」に行ってきた。大須中学校とは、旧雄勝町の東端、最も外洋側にある中学校である。「石巻市立」とはいえ、平成の大合併の結果としてそうなっただけであって、市の中心部からは車で1時間半もかかる僻地である。

 「外洋側」と海に関係する表現を使えば、「津波はどうだったの?」という話になるが、大須などという集落を見ると、津波がいかに湾の奥で激烈に盛り上がるかということがよく分かる。つまり、大須に行く途中の雄勝雄勝湾の奥)が全滅しているのに対して、湾構造をしていない大須は一番下の3軒がやられただけで、集落全体としてはほとんど無傷に等しい(船は全て使用不能になったらしい)。中学校は、その最も山手に建っているために、もちろん何の被害もなかった。

 そんな話はともかく、私は大須中学校という所に初めて行ったのだが、感動した。木造平屋建てで、全校生徒21名というこの中学校には、信じられないほどの静かでのんびりとした時間が流れていた。職員室に入ると、現在私が宮水の授業で受け持っているM君がいる。卒業生なのだそうだ。先生が、「M、平居先生にお茶!」と言うと、M君がお茶を持ってきてくれた。先生が、「なんだ、気きがねなぁ。何かお菓子も探して出せ!」などと言う。茶坊主である。

 中学校など、どこへ行っても「殺伐としている」と形容できるほど、ぴりぴりばたばたとしているのに、ここでは、「せっかく来たんだがら、まず、ゆっくりしていってけらい」と言われ、校長室でお話をし、職員室に戻って、今度はコーヒーを入れてもらって、およそ仕事とは関係のないようなお茶のみ話を、初対面の先生方とぐだぐだと1時間あまりも続けて、ようやく辞去したのだった。

 築60年ほどという木造校舎は、決していい作りではなく、一見漆喰塗りかと思われる壁が白ペンキの塗られたベニア板であるなど、むしろ安普請と言ってよいようなものだったが、何しろ、S先生がおっしゃるには、県内で唯一残った木造校舎だそうである。隅々まできれいに掃除がされ、非常に落ち着いた気持ちの良い校舎であった。廊下で会った生徒達も、素朴そのもの。いわゆる「生徒指導」はまったくないという。校舎の中央に、時計台のように小さな2階建て部分があって、その2階が校長室。そこへ上る階段も奥ゆかしいものだが、むしろ、放送室(←こんなもの必要あるのかな?)として使用されているらしい中2階の存在が印象的だった。校舎の外壁をキツツキがつついて穴を開けるのが目下の悩みだそうだ(笑)。このような所で働いている先生方は、みんな笑顔がとびきり素敵だ。自分でもこんな学校に勤務したい、自分の子どももこんな学校に通わせたい、久しぶりでそんな思いを抱いた。

 往路は学校から新北上川に沿って雄勝に抜け、帰路は雄勝から女川・渡波を経由して帰宅した。雄勝は、軒並み防潮堤が壊れ、その後に置いた巨大な土嚢も崩れ、道路に波が直接流れ込んでいた。女川は、盛土をした中心部の道路だけが冠水を免れ、他は「海」になっていた。女川町浦宿も冠水、石巻市沢田も冠水。沢田の折立は、運休中のJR石巻線の線路も水没していた。魚市場前の水産加工場街(魚町)も水没。水の中をじゃぶじゃぶ走り、かろうじて家には帰り着いたものの、私はあわてて車を水洗いした。妻によれば、石巻市中心の商店街も冠水していたそうである。今日、帰路に私がそれらの場所を通ったのは、満潮の1時間半あまり後である。しかも、「中潮」であって「大潮」ではない。近くに強い低気圧があるわけでもない。一体、これら地盤沈下による冠水は、今後どうなるのであろうか?今日ほど、事態の深刻さを強く感じたことはなかった。