音楽は消えてしまうから美しい・・・和泉宏隆のJazz Piano



 先週の金曜日、学校の近くのN's-SQUAREという所へ、和泉宏隆のピアノを聴きに行った。Jazz Pianoというのは、私があまり聴きに行く分野ではない。本当に久しぶりである。分散和音の上にメロディーを載せているだけという感じの音楽を非常に「単調」若しくは「単純」と感じるからであるが、単に手引きをしてくれる人が居なかっただけという感じもする。

 ところが、今回は、最近けっこう頻繁にそれなりの出演者を招いて小さなコンサートを開いているN's-SQUAREという会場に興味があった上、知人の縁もあって、重い腰を上げたのである。

 N's-SQUAREはピアノ調律師である個人が建てたものらしいが、素封家だったのであろう。天井が高いログハウス風の100人あまり入る部屋に、ソファーがずらりと並べてあり、ステージには100年前のものだという黒いスタインウェイと、ほぼ新品のヤマハ(C5クラスかな?外装がマホガニーなので高いんだろうなぁ)が向かい合わせに置いてある。Jazz Pianoであり、連弾(北原かな子というセミプロと)もあったためか、マイクがセットされていたのでよく分からなかったが、温かい響きのホールなのだろう。五重奏か六重奏くらいまでなら、心地よく響きを楽しむことの出来るいいホールなのではないか、と思った。

 さて、肝心のピアノは、最初のうちは例によってひどく単純だなぁ、退屈だなあと思っていたが、プログラムが進むに連れて和泉氏も聴衆もテンションが上がっていき、終演の頃にはそれなりに盛り上がり、私もけっこう楽しむことが出来た。

Jazz の良さの一つに、間違いなく「即興性」がある。私は、今回初めて、連弾をしても即興による挿入があることを知って驚いたのだが、良く考えてみると、バンドでセッションをしても即興によるソロはあるのだから、ピアノ連弾にソロがあるのは何も不思議でない。即興は、しょせん即興であって、作曲家が長い呻吟の上に作り出した曲とは完成度が全く違う。しかし、同じ価値観で比べ、評価してはいけないのだろう。即興には即興なりの緊張感や「ノリ」というものがある。いや、むしろ、演奏者は即興し、その反応を伺いながらテンションを上げていく。

 ここでふと思うのは、音楽(音)はもともと消えてゆくものだ、ということである。以前、音楽関係の某知人が、「音楽は消えてしまうからこそいい」と言っていた。確かに、演奏者が聴衆と流れる時間を共有し、その共有した時間は意識されるとされないとに関係なく心に刻まれ、その人の一部となるが、音そのものは決して残ることがない。そこに、「無常」や「あはれ」を感じ、「美」を認識するのは自然なことである。

 どんな演奏でも消えてなくなる。また、どんな演奏にも一回性があり、まったく同じ演奏を再現することは不可能だ。しかし、そのことを「即興」ほど端的に感じさせてくれるものはない。和泉氏が楽しそうに即興を演じるのを見ながら、そんなことがひどく意識された。