「バラへの三つの願い」・・・中国近代の作曲家・黄自(1)



 先日、とある事情で仙台フィルの楽員の方数名とお話をする機会があった。中国近代の音楽家について、不遜にも半ば私が解説するような形でお話ししていたところ、突如、Oさんから逆襲を受けてしまった。


 「ところで、『バラへの三つの願い』だったかいう曲を知っていますか?ニムラなんとかという人が演奏していたと思うんですけど・・・。作曲者が、(この辺の話についての私の記憶あいまい)、ほとんど冗談で名前を書かなかったところ、その後間もなく死んでしまい、誰が書いたか分からなくなってしまったとか・・・。」


 私の全然知らない話であった。Oさんの話もあやふやで、「〜と言ったかな?」というオマケをたくさん付けながらの話だった。ともかくも、気になったので、そのあやふやな話の中に見え隠れするいくつかの単語を手がかりに探してみると、二村英仁(にむらえいじん)という人が演奏する「バラへの三つの願い」という曲らしいと分かった。作曲者の名前も「未詳」ではない。黄自である。この人なら、私もよく(?)知っている。

 我が家には、黄自の伝記が2種類ある。ひとつは、銭仁康による「中国近代理論作曲人才的導師─音楽教育家黄自」(春風文芸出版社『中国近現代音楽家伝』第1巻所収)であり、もうひとつは戴鵬海による「黄自年譜」(『音楽芸術』1981年第2期所収)だ。

黄自(Huang Zi ホワン・ツー)は1904年に江蘇省の知識人の家庭に生まれ、上海で小学校を出ると、北京の清華学校に学んだ。幼少より音楽には強い関心を示していたが、西洋音楽と出会ったのは、この時だったという。1924年に清華学校を卒業すると、公費でアメリカ・アイオワ州のオボーリン大学への留学が実現する。音楽を学びたいという気持ちは強かったが、公費留学である都合上ままならず、心理学を学んだ。1926年、成績優秀で卒業すると、公費留学生としての責務から解放されたので、改めてオボーリン大学音楽学部に入学し、楽理と作曲を専攻。2年後にエール大学に移り、音楽の勉強を続けた。1929年の卒業に当たり、5月31日の卒業音楽会で、その作品「懐旧序曲」がエール大学音楽学部の学生とニューヘブン交響楽団合同のオーケストラ、デビッド・スタンリーの指揮によって初演された。これが、中国人による初めての管弦楽作品であると同時に、アメリカのオーケストラで演奏された初めての中国人作品となった。地元の新聞は、この作品を激賞したという。

帰国した黄自は、最初、上海瀘江大学音楽系の教授となるが、間もなく、中国における近代音楽教育の父・蕭友梅に招かれて上海国立音楽専科学校(音専)作曲科の教員兼教務主任となる。音専については、榎本泰子『楽人の都・上海』(研文出版)が詳しい。それによれば音専は、フランス租界(治外法権地区)やイギリスを中心とする共同租界を持ち、ロシア人やユダヤ人を含む多くの欧米人、更には日本人も集まる国際都市上海の、選りすぐりの西洋人音楽家を教授として集めた、世界に通用する音楽教育機関であった。若干26歳でそこの教授となり、教務主任として教育活動全般に権限を持ったことは、並大抵のことではない。「この時期の中国人としては音楽がよくできた」のではなく、世界に通用する実力の持ち主と評価されたこと間違いない。(だが、そのように評価したのは誰だろう?ライプツィヒで音楽を学んだ校長・蕭友梅か?音専に優秀なる教授陣を世話した可能性のある工部局管弦楽団音楽監督マリオ・パーチか?或いはザハロフ、シェフツォフ、フォアといった教授陣か?)

 1930年12月23日に、東洋一と言われた上海工部局管弦楽団で、パーチの指揮により「懐旧序曲」が初演されると、上海工部局の音楽委員にも就任した。工部局という所が共同租界の行政府であることを考えると、当時は劣等民族として扱われることの多かった中国人が、そこで音楽行政に関するご意見番を務めることは、これまた破格の扱いであると言える。

 1931年には、満州事変の勃発を受けて、中国人の覚醒と民族意識の高揚、抗日戦争へ向けての民心鼓舞を目的とした愛国歌曲を作るようにもなった。社会的には激動の時代であったが、黄自は、音専の教授として、また作曲家として、また音専内外に様々な肩書を持ちながら、大活躍を続けることになる。

 1932年は、作曲家・黄自にとって特に重要な年になった。この年、彼の代表作となる清唱劇(演出を伴わず、常に演奏会形式で上演される音楽劇。黄自のこの作品に始まる)「長恨歌」や、愛国歌曲の代表作「旗正飄々」が作曲される。「バラへの三つの願い」の原曲「玫瑰三愿」が書かれたのは、この年の6月2日のことであった。(続く)