私は「秋入学」支持者である



 19日の新聞で一斉に報道されたことだが、東京大学が、5年後から入学を秋にする方向で作業を進めるそうである。私は全面的に賛成だ。

 10年近く前に、官公庁の書類がB版からA版に変更された時、理由は「国際化」であった。私はその時、それを笑った。その気持ちは今でも変わらない。書類の規格を変える以外に、本質的な国際化の作業は山ほどあるだろう、金がない金がないと言いながら、もともとA版対応で作られていない様々な機器を買い直さなければならない、職場のスペース自体にも余裕がない、にもかかわらず海外に発送するわけでもない文書の規格を一斉に変えるのは、きっと製紙会社や文房具メーカーから政治家に大量の賄賂が流れているからに違いない、と思ったのである。

 一方、是非の議論をする余裕もなく、国際化(グローバリズム)は進んでいる。どんなに文明が発達しても、社会を支えているのは人間である。これだけ頭脳の移動が激しくなった時、直接であれ間接であれ、日本だけがそれを拒んではいけない。私は、さほど遠くない将来、エネルギー問題から、飛行機は今のようには空を飛べなくなると思っているが、情報通信はまだしばらく発達するだろうし、船であろうが鉄道であろうが、国境を越えた人・物の移動がそう簡単に減少に向うとは思えない。そもそも、もともと国境自体が便宜的なものである。まして学術の世界においては何をかいわんや。だから、秋入学を実施することで、人材の流動性を確保しようとすることは、姿勢として非常に正しい。

 以前(2008年9月25日)に書いたことだが、東大と京大は特権を持っている。それは、受験生にとって負担の増えることをしても、受験生が逃げていかない、企業に無理なお願いをしても、企業は絶対に見捨てないという特権である。だからこそ、率先して大胆な、ただしパフォーマンスではない本質的な改革をして欲しいのだ。東大や京大が先鞭をつけることで、後に従う大学は現れる。

 ただし、強者が社会制度を壊そうとする時、私たちは、強者がますます強者として一人勝ちするためのエゴではないかと疑わなければならない。しかし、秋入学については、そんな心配は必要ないのではないかと思う。確かに、今回の東大の決定は、世界レベルでの学術を行っていく上での危機感によっていると思う。私には、桜の季節への愛着に逆らうことと、移行のための作業が面倒だということ以外に、秋入学のデメリットを見つけることが出来ない。

 案の定、既にいくつかの大学が、秋入学を検討したい素振りを見せている。私は、あっという間にそれが大勢になると思う。高校以下も、会社もそれに順うことになるだろう。今までがおかしいのである。奇とするに足りない。

 ところで、東大でも、一部の高校でも、3月に入試が終わって9月までの間、東大入学予定者がどのように過ごすか(入学予定者をどのように過ごさせるか)が、既に問題となっているそうである。「秋入学へ」という変革の大胆さ、理念としての確かさに比べ、心配があまりにも幼稚なので笑ってしまった。そういうのを「余計なお世話」と言うのであろう。