小を取って大を失う・・・守秘義務考



 先週金曜日の新聞に、山梨県警の警視が、職務上知り得た情報をフェイスブックに投稿していたという記事が載った。『河北新報』によれば、それは「火事の現場では2人死んでいた」というもので、県警によると、投稿時、既に警察として発表していた内容だという。

 どうしてこんなものが新聞記事になるのだろうか?警察として発表していた内容を投稿したって、問題になるわけがない。仮に警察が発表していなかったとしても、火事の現場で2人死んだことが、なぜ秘密にしなければならない情報なのか、よほど特殊な事情でもない限り、私には理解できない。

 県警は、「職務上知り得た内容を慎重に取り扱い、誤解のないように指導する」らしいが、「指導」がなくても、記事になった時点で十分にプレッシャーだ。

 私は、匿名記事につきまとう無責任が大嫌いだし、問題が起きれば即閉鎖と思っているので、このブログも実名で公開している。もちろん、流してはいけない情報を流してはいないかということには慎重にしているつもりだが、それでも、「問題にすれば問題になる」情報が無いとは決して言えない。

 しかし、それはある意味で私が良心的だから問題になるのであって、ホームページにしてもブログにしても、出所を特定できない形にすることなど、デジタル音痴である私にとっても容易なことだ。いや、実際、私が匿名でもっと言いたい放題書いているサイトが、既に存在するかも知れない(笑)。

 人間というのは、滑稽にも、自分たちが良かれと思って作り出した技術が悪用されることで、それに振り回される。また、一体どの情報は公言してよくて、どの情報は悪いということを、各自の判断ではなく、責任者の判断に委ね、責任者に了解を取っていないことは一切公言してはいけないというのも窮屈な話だ。絶えず上位者の意向を伺ってばかりいるようになっては、各自の良識や判断力というものが、ますます低下するだろう。そうしていながら、やがては人の上に立つようになるというのも恐ろしい話だ。

 こんなくだらないことを新聞記事にすることで、人は萎縮してしまう。そして、煩わしさを避けてますます繁盛するのは、取り締まりようもない匿名サイトだということになる。実名である限りエスカレートはしないだろうが、匿名になればそうはいかない。これは非常にたちの悪い悪のスパイラルだ。

 ところで、この記事には、別件として、警視が職場で勤務時間外に酒を飲んでいたことをフェイスブックに写真入りで投稿していたことにも触れている。あまり「ケシカラン」調の書き方ではないが、気持ちとしてはそういうことなのだろう。公にしてもさして意味のないことをわざわざ公にする警視は、人間的にやや問題があるように思う。しかし、たかだかその程度のことが問題にされる世の中も面倒くさい。

 私が教員になったころは、学校による差はあったが、夕刻、こっそりお酒を飲む人がいたのはもとより、アルコール入りの卒業祝賀会さえ公然と校内で開かれたりしていた。それが、さも重大事件、深刻な綱紀の緩みのように見られるようになり、飲酒が追放されてお行儀の良い職場が生まれ、立派な教育が行われるようになったかと言えば、決してそんなことはない。ただ大らかさが失われ、窮屈になり、人間味あふれる情熱的な先生が減っただけで、プラスの価値など何も生まれていない(と私には見える)。いや、もともと良識に従って仕事に影響のあるような飲み方はしていなかったため、それによるマイナスなど生じていなかったのだ。つまり、形式的なタテマエが羽振りをきかせることで、虚構のマイナスが作り出され、それをなくすことで、実質のマイナスが生まれたという変な構図だ。そもそも、近年はどの学校も長距離通勤者が増え、しかもその大半が自家用車通勤なので、学校外においてさえ、同僚と一緒に酒を飲む機会など滅多になくなった。これは、自由な語り合いの中で、絶えず真実や最善の方法を模索し続けていなければならない教育現場としては、致命的なダメージである。

 いずれにしても、くだらないことをいちいち公にして、正義の味方を気取るような報道は謹んでもらいたいものである。