ホンネとタテマエ



 この何日か、遺体捜索の記事が新聞によく載っている。かの大川小学校の近くでは、遂に川の水を抜いての捜索が始まったそうだ。この寒い季節に、海でも相変わらずダイバーが潜って遺体探しをしている。ご苦労なことだと頭が下がる。

 私は、死んでいることに疑いの余地がないのに、なんとなく落ち着かないという程度ならともかく、何が何でも遺体を発見して欲しいという感覚がよく理解できないし、私自身が死者の立場だったとして、そのまま放置されるのは嫌だという気も起こらない。むしろ大量の油を使って燃やすより、微生物や魚の餌になる方がよほどいい(関連:昨年4月19日記事→こちら)。私にとって遺体は所詮「物」である。私は、死ねば基本的には「無」になると思っているが、仮に霊魂の存在を信じるとしても、それは遺体とは関係無く存在するものだろうと思う。

 捜索に当たる警察や海上保安庁の職員に感想を求めると、「遺体を一刻も早く家族の元に帰してあげたい気持ちで一杯です」みたいな言葉しか出て来ない。本当かな?と私は思う。私のような天の邪鬼でなくても、少なからぬ人が「今更生きて見つかるわけではあるまいし、震災から1年近くが経って行方不明者がいまだに3000人以上もいるという現実の中で、最後の一体まで発見されるなんてあり得ないのだから、どこかでほどほどにケリを付けないと・・・」と思っているのではあるまいか?仕事とは言え、士気が上がるとはとても思えない。

 ただ、そんなことをマスコミの取材に対して言うわけにはいかない、というのも確かだ。いくら図々しい私でも、さすがに遺族やマスコミに対してそんなことは言えない。思っていても言ってはいけないことというのが、確かに存在するのである。

 ここで困ったことがある。ホンネとタテマエという問題だ。この世において公言できるのは「タテマエ」で、「ホンネ」はしばしば胸に秘めておかなければならない。両者が一致すれば問題はないが、必ずしもそうはいかない。ところが、世の中の議論はたいてい公開で行われるし、仮に秘密で行われたとしても、後で公開する必要に迫られることが多い。だから、決定は基本的にタテマエに基づいて行われることになる。タテマエは形式で、ホンネの方がはるかに実質的・合理的であるはずなのに、ホンネは表に出ないことで決定に反映されにくいとすれば、何かが決まるたびに、人の実感と本心にはそぐわない、世の中が住みづらくなる要素が増えていくのは当然だ。

 昨日、山梨県警警視の、職務上知り得た情報をフェイスブックに流したこととその報道の問題について書いた。今日は、奈良県の総務部長が『産経新聞』の不買をやはりフェイスブックで呼びかけたことが問題とされていた。総務部長が、部下に産経は買うなと職務命令を出したならともかく、そのような意見を公にした(フェイスブックだから、所詮本当の意味での公ではないのに!)ことがなぜ問題になるのか、私には分からない。いよいよ私のブログも怪しくなってきた。

 タテマエによって世の中が動き、ホンネは地下に潜るか匿名によって語るしかない、という状態は、やはり世の中をゆがめる非常に困ったことである。


*よく似た記事が2010年7月6日にある(大相撲のゴタゴタに関連して→こちら