やっぱり I T 大嫌い!

 NIEの研究大会について「気が向いたら明日」などと書きつつ、3日経った。気が向かなかったというよりは、時間が取れなかったのである。今日書くのも、大会についてというものではないかも知れない。
 公開授業は、現代文であった。わずか11名(12名だったかも?)のクラスである。スマホが学力に悪影響を及ぼすのではないか?という新聞記事を元にして、その是非をディベートする、というものだ。50人ほどの教員が見ていたにもかかわらず、生徒は物怖じをすることもなく堂々と自説を述べる。それに対して、聞いている他の生徒が素早く素直に反応するのも好感が持てた。先生の指導力のたまものだろう。
 驚いたことに、生徒は机の上にスマホとiPadを出している。そして、意見を表明する時には、まずiPadで書き込みをする。するとスクリーン上にそれが投影される。なんでもEdmodo(エドモド)というアプリを使っているらしい。
 私のような時代遅れ、というよりアンチ文明主義者、若しくはITアレルギーの人間は全然知らなかったのだが、Edmodoとは、Z会が運営している無料のアプリで、そこに情報を入力すると、記録が残るだけではなく、保護者も含めたクラスや学年での情報共有が可能になるらしい。聞けば、類似のアプリは他にもあるという。
 1時間限りの授業を見ただけでは、それがどのような効果をもたらすのかよく分からなかったが、ご丁寧に、当日配布された資料の中には、Edmodoのパンフレットが入っていたので、帰りの電車の中で熟読してみた。・・・申し訳ないが、これはいいな、私も出来れば使ってみたい、などとはゆめゆめ思わなかった。
 活用事例集には、活用の効果として、以下のようなことが列挙してある。

1)クラスメートの考えを共有できる。
2)連絡事項共有の簡易化
3)安全に学校を越えた取り組みが出来る。
4)校務の効率化
5)匿名で取るアンケートが管理できる。
6)提出書類の管理簡易化
7)英語4技能の向上
8)知識の習得だけではなく活用を促す。
9)先生同士のコミュニケーション活性化
10)ペーパーレス化
11)学校の透明性を向上
12)理解度の定着
13)学級日誌の共有

 全てについて私が考えることを書くわけにも行かないので、例として一部に触れる。例えば2)だ。解説が次のように書かれている。

「一日の最後に、先生は必ず児童・生徒に次の日の連絡を連絡帳に書かせます。しかし、低学年であれば正確な情報をそのまま書き写すことが難しく、非常に時間がかかってしまいます。また、高学年になればなるほど横着な生徒は、「分かったから」と書かないこともあります。また、連絡事項で先生が生徒に伝えているにもかかわらず、保護者まで内容が届いていないということも多々あります。」

 このように問題を指摘した上で、Edmodoを使えばこうなりますよ、という解説が以下の通りだ。

「Edmodoの掲示板に連絡事項を投稿することで、児童・生徒に連絡帳を書かせることなく、情報を共有することができます。また、保護者もEdmodoで子どもとつながっているため、確実に日々の情報や状況を確認することができます。」

 恐れ入る。このようなものを読んで、「なるほど便利でいいなぁ」と思う人の気が知れない。
 なぜ、低学年で正確な情報の書き写しに時間がかかるかといえば、そのような能力が未発達だからである。そして、作業の粘り強い反復はそのような能力を育てるだろうが、Edmodoのような手段に頼ってはそれが出来ない。
 「分かったから」と言って書かない「横着な」生徒が、本当に分かっているのであれば、何も問題はない。大切なのは言ったとおりに書いているかどうかではなく、分かっているかどうかだろう。「分かったから」と言いながら実際には分かっていなかったら、それで問題が発生した時点で「書いておけと言ったのに書かなかったから」と指摘し、書くことの必要性に内側から気付かせていく。「反省」という行為だ。それは無価値なことだろうか?
 生徒を通り越して保護者に連絡が伝われば、生徒が親に伝える必要はなくなってしまう。親も気軽に子どもを素通りして、先生にいろいろなことを言うようになるだろう。学校の情報が親子のコミュニケーションにきっかけになるチャンスを失い、大人同士のやりとりでいろいろなことが行われるようになれば、子どもがスポイルされる場面は増えるだろう。そして子どもは、ますます自立の機会を失っていく。
 現在、Edmodoのような教育アプリは使っていないまでも、メーリングリストを使って保護者に直接情報を届けている学校は少なくないだろうが、それを更に過激にするのがこのアプリであると見える。
 生徒同士、生徒と教員、教員と保護者、教員同士、これらで情報を共有できるのは一見素晴らしい。しかし、人間と人間のコミュニケーションの基本は直接の会話である。人間は言葉だけではなく、相手の表情や雰囲気、声の大きさや質から多くのメッセージを読み取るからだ。それを疎かにして、画面の中での文字や写真のやりとりが大きな位置を占めていくことは、人間のコミュニケーションを間違いなく狂わせるだろう。
  口癖「便利と楽を私は信じない。」やっぱりそうなのである。面倒な思いをして紙に書かせ、伝わらない情報にいらいらする。だが、それらによって人間が成長し、コミュニケーションが生まれることを忘れてはいけない。

 2)以外のその他をひとまとめにして論評しておく。
 ペーパーレスにも私は懐疑的だ。極端な環境主義者である私が、なぜ紙の消費を抑えるはずのペーパーレスに否定的かというと、まず、上と同様に、紙に印刷してあることによる質感(言語以外の情報)が、情報伝達の上で大きな価値を持つと思っているからだ。新聞記事は、新聞で読むのとインターネットで読むのとは違うのである。この情緒を馬鹿にしてはいけない。また、人間がじっくりと物事を考えるためには、すぐに消えてしまう画面ではぜったにダメで、紙を手に取り、時間をかけて繰り返し読んだり、書き込んだりする作業がどうしても必要だからである。
 もちろん、ペーパーレスとは言っても、何でもそうしろと言うわけではなく、一見して済むものはペーパーレスで済ませ、大切なことは紙にすればよい、という意見はあるだろう。それはその通り。しかし、日常的にこのようなアプリに頼る人が、そのような判断を的確にできると私は信じていない。哲学的な思考が出来ない、つまりは疑うことを知らない人間は、ほとんど何も考えていなくても、本人は考えたつもりになって疑わない。つまり、たいていの人は、いいか悪いかを丁寧に考えたりしない。何でもかんでも、「あ、分かった分かった。OK」という可能性は、決して低くはないのである。
 また、共有する範囲が広がり、情報が蓄積もされるようになると、情報の量というものは加速度的に増大する。それらに全て目を通し、有効活用することが迫られれば、多忙は加速する。これは典型的な「灰色の男たち」に時間を奪われる構図だ。
 人間の情報処理能力は、機器がいくら進歩しても、基本的に変化していない。機器のおかげで情報量が増大し、人間の処理能力が変わらないとすれば、人間は機器に振り回されることになる。本当に大切なことは記憶している。記憶できないことは、たいした価値がないということである。「忘れる」ということによって情報の取捨選択を行うという生理的な機能は重要である。
 残念ながら、解説書のページをいくらめくっても、なるほどこれはいいなぁ、と思えるものを、私はついに見付けられなかった。
 このように考えるのは、私がIT嫌いで、悪意的に物事を見るからだろうか?それとも、このように考えるからこそIT嫌いなのだろうか?判断は、読者にお任せします。


(注)ITについての過去記事→こちら(「私は「できない」のではなく、「しない」のである」)やこちら(「携帯禍」)。考え方全然変わっていません。