君が代強制問題、その後



 以前から度々書いている通り、私は今後日本という国が破滅するとすれば、その根っこの所に「日の丸君が代」強制問題がある、逆の言い方をすれば、「日の丸君が代」強制こそが遠因となって日本が滅ぶことはある、と思っているので、公務員が規則を守るのは当たり前だろうとか批判されながら、何度かこの問題に触れてきた。日の丸という旗、君が代という歌が悪いのではない。そういうものを力ずくで強制する精神、更に言えば、そういうことをして正義感に酔う精神が危険なのである。

 最近、状況はますます危険なので、この1ヶ月ほどの出来事にコメントしておく。


 2月20日報道:2月15日の早稲田大学法学部の入試で、「卒業式や入学式で君が代を斉唱するときに、教員に対して起立することを命じ、起立していない教員を処分するという措置の合憲性が争われている」という東京都の例に触れ、「教育には強制はふさわしくないのではなかろうか」とする問題文が用いられた。東京都教育委員会は、この入試の後、一部の進学校校長にその試験を受けた生徒数調査を依頼した。都教委は「対応が必要かどうか検討する」と言っている。

 (私のコメント)こうなると、「君が代」の強制に疑問を持つことは、戦前の「危険思想」そのものである。触れるだけでも危ない。しかも、この問題に関しては、よく公立学校教員(公務員)が「規則を守れないのはケシカラン」と批判されるのと違って、生徒が入試問題でそういう内容の文章を読んだ、というだけなのである。この記事を読んで恐ろしいと思わない人は、そもそも「自由」とか「民主主義」について語る資格がないとさえ思う。都教委が想定する「対応」とは一体何だろうか。


 3月10日報道:大阪府では、学校行事での国歌の起立斉唱を義務づける「君が代起立条例」に基づく職務命令に違反した17名に、戒告処分を行った。府教委は処分理由を、「上司の職務命令に従う義務に違反し、公立学校教員の職の信用を著しく失墜させた」と説明している。

 (私のコメント)府教委の説明が気に入った。なぜなら、昔、日の丸君が代を強制させようとしていた政府が言っていた「愛国心、或いは国旗国歌を尊重する態度の涵養」などというもっともらしい大義名分を振りかざすのではなく、「無条件に命令に服するかどうかを試す」という日の丸君が代強制問題の本質に関わる正直な説明をしているからである。そう、日の丸君が代の本質は、いかなる命令にでも従えるかどうかの踏み絵なのである。命令に従えない教員がいると、府民から見た場合、「公立学校の教員として信用できない」、更には特定の教員ではなく、一般に「先生は信用できない」ということになるのかどうか・・・。私にはまったく理解できない感覚だが、やっぱり「府民」はそう思っているのでしょうね?なにしろ「著しく失墜」したとされる「信用」とは、府民の側の意識だから・・・。


 3月13日報道:大阪府立和泉高校の卒業式で、教職員が本当に国歌を歌っているかどうか、校長が口の動きで確認していた。口が動いていなかった教員のうち1人は、歌わなかったことを認めたため、府教委は処分を検討している。これについて、「国歌起立条例」の提案者である橋下大阪市長は、「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛している。

 (私のコメント)東京都でも似たような話があったと記憶する。異常な執念だと恐れ入るが、こうして服務規律を徹底すればいい仕事が出来ると考えているなら、あまりにも「人間」を知らない、と言うべきだろう。私には、「服務規律に従う」ことが、職務を十分に果たすためという目的を離れて、自己目的化しているように見える。こういうやり方に批判的な人の間では、橋下徹という人は悪魔のような人物だが、彼が世論によって支持されているというのも事実だ(このことに含まれる問題は、またそのうちということで、とりあえず)。前の段と同じで、結局、世の中のゆがみは、一政治家ではなく世の中全体の人々(=必ずしも「世の中の人々全員」ではない)に問題があるということだ。


 大阪で勢力を急増させている会の名前は、言うまでもなく「維新の会」である。思えば、日本の近現代史において、明治維新から敗戦までは一本のスジで結ばれている。明治維新の帰結が敗戦なのである。「維新の会」という名称が、果たしてこのことと無縁であるのかどうか・・・?敗戦の前には、中間段階として、維新政策の主に「功」の面が表面化し、日本人が熱狂(驚喜)した時期があったことも思い浮かぶ。